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発端と僅かばかりの昔話

冬ともなれば、この世界は厄介だ。
舞う雪は、確かに美しい。
しかし、化学的分析によれば、それはNCD(放射性複合廃棄物)の結晶でしかなかった。
体内に吸入すれば、まず無事ではいられない。十中八九、命を失うことになるだろう。
対応手段がないわけではない。
例えば、近年著しい発展を遂げたバイオニック・ナノ・テクノロジーは、この恐るべき毒物にある程度は対処することができる。
あくまでも『ある程度』であり、かつ事前に手を打っておく必要があるが。
また、『核の冬』を想定して研鑚されていた放射能遮蔽技術も、一応は有効に働くことが確認されている。
『一応』が付くのは、その効果が完全でも恒久的でもないが故だ。
特に冬、結晶状の放射性複合廃棄物が振ってくるようになると、外を出歩くためにはこの二つを併用する必要がある。
すなわち、ANBCBT(抗核・生物・化学バイオチップ)を服用し、CDS(複合防護服)を着用することが、必須の条件となる。
それだけの制限を受けてもなお、外を出歩く者はいる。
ザク、ザク、ザク。
鋼鉄の鎧に包まれた足が大地に下ろされるたび、降り積もった雪・・・・NCD結晶の絨毯が、小気味良い音を立てる。
歩みを進める者は、一人きりだった。
かなり小柄。
しかし、恐らく体力は並みの人間よりも秀でているはずだ。
CDSは、種々の防護・生命維持機能を満たさねばならないため、一般に大変な重量になる。並の人間では、五分と着て歩くことができないほどの重さだ。
通常、この問題を解決するために、CDSは着用者の動作を補助する機関を搭載する。
初期にはMSM(機動補助モーター)と呼ばれる電動モーターを関節に積み込んでいたが、消費エネルギー量や行動時間の問題、さらにはMSM搭載によるCDS自体の巨大化という本末転倒な事態に陥る場合もあったため、すぐに現在主流になっているCAF(運搬補助機構)と呼ばれる、独特のフレーム構造をボディに用いるスタイルに変更された。
これは、本来歩兵用の物資運搬機器として開発されていた軍事技術を転用したものだ。
そして、見た限りにおいて、今そこを歩いている者のCDSには、CAFは搭載されていないようであった。CAF独特の、あちこちに長い刺が突き出したようなフレーム構造ボディではない。どちらかといえば、中世欧州の騎士が着用したという板金鎧に近い。
全体的には、曲線を多用した女性的なフォルム。蒼を基調とした塗装がなされているが、所々は傷付き、地金がむき出しになっている。見る者が見れば、その形状が美術的価値を狙ったものではなく、対弾性能を高めるための超高張曲面装甲を用いているためだと理解できただろう。
丸みを帯びたヘルメットのバイザーも金属製で、今は完全に降ろされ着用者の顔面を保護していた。ちょうど目の形にくり貫かれたような隙間があり、その奥には真っ黒な強化対弾ガラスが煌いている。
一種独特の美を感じさせるCDSだ。人造の機能美である。
CAFが搭載されていないとなれば、着用者の肉体的な負担は相当なものになるはずだった。それを考えれば、その着用者が相応の訓練を積んでいることは、容易に想像できた。
もしくは、CDSそのものがまったく新しい技術を用いているか、だ。こちらに関しても、あながち的外れな見解とも言い切れない。
胸と左肩、キツネのエンブレムの下に控えめに記された「KurusugawaLaboratoly」のロゴが、その論拠だ。来栖川研究所と言えば、この世界最先端を行く実践的科学者集団として知られている。特に有名なのは長瀬源五郎を中心としたメイドロボ開発グループだが、それ以外にも多くの分野で来栖川の名は轟いている。
いずれにせよ、その人物が並の人間でないことだけは確かだった。
彼、あるいは彼女は疲れを感じさせない一定の調子で歩みを進める。周囲は、いつしか奇妙な建物に取り巻かれるようになった。
捻じ曲がった骨格材。
波を打つ壁。
名状し難い、難解な色。
それらは、想像を絶する複雑さをもって、絶対の美を表していた。
俗に「混沌の美」と呼ばれる。
反吐が出るほどの、狂気の美だ。
狂気の美の中を、人造の美が歩む。
ややあって、CDSは歩みを止めた。
眼前に、恐らく住居だったと思われる建造物。
そこでCDSの人物は振り返り、少しの間だけ、背後にそびえる丘を仰ぎ見た。
「変わってしまった・・・・何もかもが」
誰にともなく、つぶやく。
その声は、ヘルメットに遮られくぐもってはいたが、女性----それも、かなり若い、恐らくは少女----を感じさせる音質だった。
軽くかぶりを振り、CDSの人物は再び眼前の建造物へ目を向ける。
ドアと思われるあたりに手を当て、軽く押してみる。これという抵抗もなく、入り口は開いた。捻じ曲がった外観を見ている限りとてもそうは思えないが、建造物はその本来の機能を、多少の変化はあったとしても失ってはいない。
慎重に、CDSは室内に足を踏み入れた。
いくらかの化け物が出てもおかしくはない雰囲気だったが、特に変化はない。
それでも緊張を解かず、周囲に気を配りながらゆっくりと装甲に降り積もったNCD結晶を拭い落とす。さらに、屋内を一通り探索してから、ようやくその人物はCDSのヘルメットの留め金を外した。
声から判ぜられた通り、まだあどけなさが残る少女だった。
童顔。
青みがかったショートカット。
真っ直ぐな瞳。
もしも、この街に人が残っているのなら、幾人かは彼女のことを知っているかもしれない。
名を、松原葵、と言った。
葵は、ゆっくりと室内を見回し、しばし呆然とする。
深いため息と共に、一筋の涙が伝い落ちた。
「覚悟は、していたはずなのに」
独語して、うつむく。
この、見慣れない様相の建築物は、しかし葵にとってなじみの場所であった。
当たり前だ。
彼女の実家なのだから。
様相は変われども、そこは彼女の家に他ならないのだから。
変わり果てた我が家を目の当たりにして、葵はしばし呆然と涙を流していた。
ここに住んでいたはずの両親の姿が見えないのは、せめてもの救いなのかもしれない。死という、ありふれた、しかし残酷な現実を意識の外に追いやることができるのだから。
未練を振り払うように鋭くかぶりを振って、葵は右の手甲を外し腰のポーチから錠剤を取り出して口にほうり込んだ。
濃縮ANBCBT錠だ。
甘い味付けがなされているとはいえ、あまり気持ちの良いものではない。
必要だとわかってはいても、葵はこの薬品にどうにも慣れることができないでいた。自分が自然ならざるものに成り果ててしまう、そんな気がしてならないのだ。
処方に従いゆっくりと錠剤を舐め溶かしながら、葵は手甲とヘルメットを装着し直した。この場所に、長く留まっているつもりはなかった。
本来なら多少の休息も必要なのだろうが、今の葵には他に目的がある。
そして、目的がある時にゆっくりと休息がとれるほど、葵は器用な性格をしていなかった。
もっとも、それ以前にひとつの、確信ともいえる予感があったからなのだが。
先刻潜り抜けた扉の前まできた時、葵はその予感が正しかったことを知った。
「やっぱり・・・・」
扉が、ない。
予測していたことでもあり、葵は特に驚きはしなかった。
混沌の世界では、そこにあったはずのものがなくなったり、なかったはずのものが現れたりすることは、特に珍しいことでもないのだ。
ため息を吐いて、葵は左腰に引っ掛けてあった小振りの自動小銃を手に取った。
KM−18AC、来栖川製対混沌コマンドライフルだ。
葵はあまり銃を好まなかったが、さすがに混沌の蠢く壁には、自慢の格闘技も役には立たないのだからしょうがない。
扉があったはずの場所に向かって無造作に構え、葵は引き金を引いた。
パスッパスッパスッ!
意外なほど気の抜けた乾いた音を立てて、3発の銃弾が放たれる。
弾は、しかしすさまじい威力で扉だった壁を破壊した。
たった3発で、壁には楽に人一人が通り抜けられるほどの穴がうがたれたのだ。
もっとも、その壁は壊れた端から蠢き、また別の形になろうとしているのだが。
素早く、葵は外へと駆け出した。
そのまま、急ぎ足でその場を離れる。
銃声を聞きとがめた混沌の怪物が寄ってくるかもしれないからだ。
目的がある今、連中との接触はできるだけ避けたい。
慎重に、しかし早足でその場を離れ、葵は目的を遂げるべくさらに歩を進めた。
向かうのは、かつては高級住宅街であった場所だ。

その場所は、以前とさほど変わってはいなかった。
どうやら、この辺りでは混沌の影響の中心は、かつて葵が通っていた学校の付近にあるようで、この場所からはかなり離れている。そのためなのかもしれない。
貪欲で絶え間なき混沌と言えども、その力は無限ではない。
渦の中心から離れれば、流れが緩やかにもなる。
だから、今葵の目の前には揺れ動く混沌の大地ではなく、きわめて巨大な、洋館風の建築物があった。
表札はない。
必要がないのだ。
その建物が誰のものか、誰もが知っているのだから。
よほど世に疎い者でも、来栖川の名は知っているのだから。
少々ためらいがちに、葵はその建物の門をくぐった。
敬愛する先輩の一人でありこの建物に住んでいた者の一人でもある、来栖川綾香に連れられて何度かは訪れた場所だ。入り口の荘厳な扉を見るたびに、必要以上に緊張していたことを思い出す。
今も、緊張はしている。
だが、それは昔日とは全く異なる緊張。
この屋敷が、安全である保証などどこにも無い。
戦いの、いや、殺し合いの渦中に身を置くがゆえに染み付いた、嫌悪すべき精神的防衛反応。
生き抜けるよう、己を見失わないよう、戦士たちが所持する心の砦。
それが、葵に緊張を強いる。
まして、今ここにいる理由を思えば、その緊張はいや増そうというものだ。

 

 

話は、三ヶ月ほど前までさかのぼる。
ついでに前もって断っておくと、正確な、あるいは完全な情報は、誰ひとりとして持ちあわせてはいない。したがって、これから述べられることに関しては、少々不鮮明、あるいは不正確な部分がある。

その日、松原葵は敬愛する先輩の一人である来栖川綾香らと共に、ホノルルに滞在していた。
純然たる観光に訪れたわけではない。
エクストリーム・ルールを用いた格闘技大会の観戦が、彼女たちの主要な目的であった。エクストリームFY級(女子18歳以下部門)チャンピオンにして来栖川グループのうら若き娘である綾香や、エクストリーム初参加でいきなり準決勝まで駒を進めた坂下好恵などには、少々退屈な典礼などのスケジュールも用意されていた。
本戦一回戦負けの葵に、それほどきらびやかなステージが用意されるはずもなく、式典の間は別の所用で綾香に同行した綾香の姉芹香と、ゆったりと海に沈む夕日を眺めて試合が始まるまでのひとときを過ごしていた。
もっとも、もとより無口な芹香は入手した魔道書を読み耽っており、葵は葵で豪華な部屋といかにも深窓のお嬢様らしい芹香に気おされたのか妙に緊張していて、二人の間にはほとんど会話らしい会話はなかったが。
そういった、一種独特の静けさの中にいたからかもしれない。
葵と芹香は、通りで起きたざわめきに、いち早く気付くことが出来た。
海岸通りの方が、何やら騒がしい。
なんの騒ぎだろう、と葵が窓辺へと足を進めたところで、いくつかの乾いた轟音が響いた。
それが銃声であることに思い至るのには、それほどの時間を要しなかった。
ギョッとした葵が目を凝らすと、遥かかなたに黒いシミのようなものを捉えることが出来た。
薄暗い空に、やわらかな夕日に照らされて、蠢く「何か」。
「あ、あれ?なんだろ?」
素朴な疑問を葵が呟いたとき、ようやく芹香がその隣に立った。
「・・・・・・」
「芹香さん、あれ、何でしょう?」
微かな呟きを問いかけと判断した葵は、自分が目にした蠢くシミを指差す。
それを見た芹香は、怪訝な表情で首をかしげている。
ニャォゥ、と、短い鳴き声が足元から聞こえた。
気がつけば、芹香のペット(妹の綾香を含め幾人かは「使い魔」と称したが)である黒猫が、震えながら芹香に身を摺り寄せている。
ゆっくりと首をめぐらしてそれを見つめた芹香は、やはりゆったりとした動作でもう一度窓の外を眺めた。
ややあって、納得したようにコクリとうなずく。
そこへ、丁寧ではあるがえらく大きな声が響いた。
「お嬢様、よろしいでしょうか?」
「・・・・・・」
応えてはいるのだろうが、芹香の声は葵には捉えられなかった。
本人もそれを自覚しているのか、スッと扉に向かい、ゆっくりとドアノブを捻った。
「失礼いたします、お嬢様」
扉の外には、隆々たる体躯をかしこまらせた、執事のセバスチャン――長瀬源四郎の姿がある。
高齢のはずだが、心身ともに衰えを感じさせない男だ。
「なにやら表が騒がしい様子。お気にされておいでではないかと」
「・・・・・・」
「はっ?」
「・・・・・・」
「な、なんですとっ!?」
「・・・・・・」
「承知しました。お嬢様はこちらにてお待ちくださいませ」
深々と一礼し、セバスチャンは扉の向こうへと消えた。
よくぞ芹香のか細すぎる声を聞き取れるものだと、葵は少々場違いなことに感心してしまう。
彼女の耳では、魔物、蠢く、変化、といった、断片的な単語しか聞き取れなかった。
もっとも、それだけ聞けば尋常でないことは理解できる。
事態が、なのか、芹香が、なのかはともかくとして。
局のところ、両方とも常軌を逸してるのだと理解するには、ものの数分程度の時間で十分だった。
空のシミはじわじわとその領域を拡大し、それが鳥か何か――笑わないで頂きたい。当時の葵には、混沌に関する知識は全く無かったのだから――小さな生物の集合体であると理解できた。
それが次第に空を埋めようとしている時点で既に異様であったが、それ以上に、葵は格闘家の優れた感性でこの生き物の集団に明確な悪意を感じる。
この事態の最中、芹香は彼女にしては慌しく部屋中を行き来し、小袋やら魔導書やらを掻き集めていた。
ややあって、芹香は遠慮がちに葵に声をかけた。
「・・・・・・」
「え?あ、はいっ!」
相変わらず聞き取りにくい声であったため詳細まではわからないが、どうやら、手伝ってくれ、と頼まれていると理解した葵は、手渡された小袋と書物を抱えて芹香に付き従った。
とりあえず体を動かす理由ができたことが、半ば思考が混乱した葵にはあり難かった。

同時刻、エクストリーム・スペシャルワンナイトマッチ会場。
とは言っても、要するに芹香たちが滞在しているホテルの1Fホールなのだが。
階上を慌しくさせていた騒動の波は、若干遅れてこちらにも押し寄せてきていた。
断続的な発砲音は、華やかなBGMが鳴り響く会場内にまでは届くことはなかったが、その周辺では聞き取ることができた。
警備にあたっていた地元警察や警備会社職員の間でそのことが囁かれれば、自然周囲にいる観客たちの耳にも漏れる。
定刻を過ぎてもセレモニーが始まらないとなれば、観客の間に物騒な噂話が加速度的に広まるのも道理であろう。
「やな雰囲気ねぇ」
来栖川綾香は、会場の様子をそう表現した。
その隣で、ライバルである坂下好恵がうなずく。
「嫌な雰囲気っていうのは、もとからだけど。少し異常なものを感じるわね」
控え室から続く通路の脇で、二人は会場の様子をうかがっていた。
観客からは、セレモニーと試合が始まらないことに対して説明を求める声があがっている。
説明を求めるといえば聞こえは良いが、放置すれば暴動でも起きそうな雰囲気だ。
「好恵のエンターテイメント嫌いも筋金入りね〜。でも、ま、確かにこれはテンション高過ぎって感じね」
これは、エキシビジョンとして好恵と一試合するぐらいのサービスが必要かもしれない。
好恵にしてみても、退屈な式典とスピーチなどよりは、よほど気乗りするだろうし。
そのようなことを――もちろん大真面目で――考えていたところへ、見知った顔が急ぎ足で近付いてくる姿が視界に入った。
執事、というよりは、お目付け役、という言葉のほうがふさわしい男、長瀬源四郎である。
「綾香お嬢様、こちらにおいででしたか」
「あら?何か用、長瀬さん」
「セバスチャン、でございます。綾香お嬢様」
この執事は、綾香の姉である芹香より贈られた『愛のニックネーム』とやらを、ことのほか大切にしていた。
いかなる火急の時下にあっても、恐らくは己の呼び名を訂正する労を厭いはしないだろう。
一方で綾香は、そのような些事に拘泥するような趣味は持ち合わせていなかったので、とにかく用件を聞くことにする。
「はいはい。それで、セバスチャン、何か用かしら?こっちは、あんまり暇でもないんだけど」
「はい。芹香お嬢様が、至急に、とお呼びでございます」
肩をすくめて、綾香は答えた。
「OK。式典が終わったら駆けつけるわ」
「いえ、火急の用件でございます。今すぐに」
断固たる口調で促すセバスチャンに、綾香は怪訝な顔で応じる。
「今?それはムリね」
セバスチャンは元々来栖川翁の信任篤く、翁の秘蔵っ子である芹香のお付きを、彼女がまだ物心つかないうちから務めてきた男だ。
そのためか、何事につけて芹香の意思を最優先に尊重して行動する傾向があった。
芹香がこうと言えば、綾香の立場や状況などお構いなしということもままある。
それ以前に、綾香は執事の厳格さを少々苦手としていたが。
「お呼びがかかったら、すぐにでもステージに出て行かなきゃならない。それに、観客が暴徒と化す前になだめる算段も考えないといけないだろうし。ねぇ、好恵」
そう述べつつ、意味ありげに好恵に視線を送る。
好恵は、またロクでもないことを考えているな、とばかりに顔を僅かにしかめ、綾香の誘いを黙殺した。
黙っていなかったのは、セバスチャンである。
「それどころではありませんぞ!」
会場の向こうの端にも届けと言わんばかりの大声だ。
綾香には、一瞬セバスチャンの顔が巨大化したようにも思えた。
他の諸事と同じく格闘技にも天賦の才能を持つ綾香であるが、この溢れ出る気合とパワーばかりは真似できない。
このトチ狂った頑固爺。
そう思いつつ閉口する綾香に代わって、好恵が訊いた。
「いったい、何事なんですか?」
セバスチャンは、居住まいを正してその問いに答える。
「芹香お嬢様が仰いますには、涌き出た混沌が当地を覆わんとしているとのことです」
「はぁ?」
「あのねぇ・・・・」
当惑する好恵と呆れ顔の綾香を置き去りにして、セバスチャンは言葉を継いだ。
「蠢く混沌の魔物どもは、絶えず変化を続けこの地を魔の領域としてしまうやもしれませぬ。故に、それを防ぐべく儀式を手伝ってもらいたいと、芹香お嬢様は要望しております」
あまりに荒唐無稽な『火急の用件』に、綾香ががっくりと肩を落としたり、好恵が絶句していられたのは、発砲音に続いて会場のドアがぶち抜かれるまでの僅かな時間だった。

混沌の魔物。
姉さんはそう言ったのだったか。
詮もないことを考えながら、綾香は会場をパニックに陥れた侵入者を見据えていた。
奇妙に曲がりくねった手足は、格闘に向いているとも思えない造り。
左右非対称の禍禍しい翼は飛行の用を為さないらしく、不器用にピョンピョンと飛び跳ねている。
背は、成人男子より少しばかり低い。
もっとも、かなりの猫背であるため背を伸ばせば2メートルは越えるか。
顔らしきものと乱杭歯が並ぶ口は確認できるが、耳や目に相当する器官を見出すことは出来ない。
概要を述べれば、そういう連中。
綾香の位置からは数体が確認できるが、正確に言えば一体として同じ者はいない。
ある者は腕のあるべき位置に触手の塊が生えており、ある者は翼の代わりに形容し難い複雑な色の背鰭を持っている。
間近でセバスチャンが何やら叫んでいるという程度の認識はあった。
退路を求める群衆が脇を駆けぬけている様子も視界には入っていた。
だが、綾香は委細構わず憑かれたようにモンスターを凝視していた。
あれは、何か。
自分は、どうするべきか。
迷う心が弾け飛んだのは、果敢にも怪物に挑みかかったエクストリーム選手の一人が、まさしく言葉通りの意味で秒殺される姿を目にした時だった。
その足元には、震える小さな子供。
無駄かもしれない。
間に合わないだろう。
間に合って何ができる?
理性が告げる正論を無視して駆け出そうとした綾香は、出し抜けに肩口を掴まれて大きくバランスを崩した。
「綾香!」
「行かせなさい!」
肩を掴む好恵を振りほどこうと繰り出した肘打ちをかわされ、続けて繰り出す膝蹴りをガードされ、綾香は鳩尾をしたたかに打ち抜かれる。
意識が途切れる瞬間綾香の目に映ったのは、潰れんばかりに正拳を握り締めた好恵の姿だった。
「どうすれば・・・・?」
気絶させた綾香をセバスチャンに預けながら問う好恵に、セバスチャンは苦しげに答える。
「ともかく、芹香お嬢様のところへ」

重厚な扉を開けて入ってきた人物を見て、葵は短く悲鳴を上げた。
「綾香さん!」
「気絶してるだけよ」
駆け寄ろうとする葵を制止する好恵の息は荒い。
隣で綾香を抱えて涼しげな顔をしているセバスチャンを見ているとそうは見えないが、危険を考慮してエレベーターを避け階段を駆け登ってきたためだ。
三人の姿を確認した芹香がセバスチャンに歩み寄り、囁くように何事か告げる。
好恵は、芹香の声を断片的に聞きながら、改めて部屋を眺め渡す。
豪奢な調度品はあらかた脇のほうに追いやられており、ブラインドがすべて開け放たれている窓からは水平線に消え行こうとしている陽光の残滓が射し込んでいる。
深紅のカーペットが敷き詰められた床には、真っ白な砂か何かで奇妙な模様が描かれている。
「これは?」
尋ねる好恵に、困惑顔の葵が答えた。
「魔法陣、だそうです」
その模様は、魔法陣という言葉から一般的に連想されるであろう、円の中に何かが描かれているという形態とは大きく異なる外観を持っていた。
全体的な形は長方形に近く、強いて言えば矢印のように見えなくもない。
太陽との位置関係から察するに、恐らくは真北を指し示す純白の矢。
それを魔法陣と言われても、好恵にはピンとこなかった。
「それで、何をするって・・・・?」
押し殺したような低い声が耳に入り、好恵はその声がした方に首を巡らせる。
見れば、意識を取り戻した綾香が、うつむいたまま芹香と向かい合っていた。
「・・・・」
「儀式?そんな事をしている場合じゃないでしょ!?」
激昂した様子で、綾香は姉に詰め寄る。
「今も、下では人が死んでいるかもしれない!大勢!そんな時に、姉さんの道楽に付き合えって!?」
気持ちはわからないでもないが、それは八つ当りと言うものだ。
芹香に食って掛かるライバルの姿を見て、好恵は自分でも驚くくらい冷静にそう考えていた。
階下の阿鼻叫喚は、この目に焼き付いている。
あの場にいたからといって、何が出来るわけでもないことは揺るぎ無い事実だ。
よしんば、誰かの身代わりとなって命を散らすこと程度のことが出来たとしても、それは根本的な解決にはならない。
今取れる最善の策を考えねばならない。
その時間を作るという意味で、ここまで逃げ延びたことは正解だったと思う。
とはいえ、好恵にしてみても芹香の言う『儀式』に対する評価は綾香とさほど変わらない。
それが事態の打開に繋がるなどとは、到底思えなかった。
だが、セバスチャンには別の意見があるようであった。
「綾香お嬢様。このような事態だからこそです」
いかなる理由があってのことか好恵には知りようもないが、セバスチャンは確固たる口調で語り掛けた。
「尋常ではない事態に際しては、尋常ではない力が働くものです。尋常の方法では、その力を防ぎ、あるいは利することはできませぬぞ」
もっとも、それで説き伏せられるほど、綾香の精神構造は柔軟には出来ていない。
「だから姉さんの魔法?冗談にも程があるわ。姉さんの魔法とかいうもので何とかなるっていうんなら、私はこの事件自体姉さんが仕組んだものだって言われても納得するわよ!」
セバスチャンの眉がピクリと動く。
つられて。好恵も顔をしかめた。
好恵はこの男のことをよくは知らないが、芹香のためであれば綾香を叩き伏せるぐらいの意思と力の持ち主であることくらいは承知している。
さすがに今の言い様はまずくはないか――
パァン!
気の抜けたような音を立てて、綾香の頬が張られた。
手を出したのは、巨躯の執事ではなく細腕の魔術師の方だった。
「・・・・冗談にも、程があります」
あの芹香が、はっきりとした声でたしなめる。
まさか姉に手を上げられるとは思っても見なかった綾香は、しばし呆然と芹香の顔を見つめた。
芹香の真摯な瞳は、僅かに怒りと哀しみに揺れている。
それだけで、綾香は自分に非があることを認めた。
芹香が冗談など言える人物ではないことは、妹である自分が一番よくわかっているはずなのに。
「・・・・ごめん、姉さん」
激情に駆られて吐いた暴言を、素直に謝る。
常々好恵が言う通り、自分はいささか精神面の鍛錬が足りないのかもしれない。
ふるふるとかぶりを振って、芹香は自分が叩いてしまった綾香の頬を気にかける。
日頃好恵や葵と拳を交わらせている綾香にとっては、蚊が止まった程度にしか感じないような打撃なのだが。
心は結構痛かった。
まあ、それはお互い様だし、ね。
そう思いつつ、綾香は幾らか弱気に微笑んで訊いた。
「私たちは、何をすればいいの?」
「・・・・・・」
「信じて?それでいいの?」
こくり、とうなずいて、芹香は重ねて言った。
「・・・・・・」
「わかった。念じるのね?姉さんの魔法が、上手くいくように」
姉が再度うなずくのを確認して、綾香は他の三人に視線と言葉を転じる。
「みんな、OK?とにかく、今は姉さんを信じるしかないみたい」
もとよりそのつもりのセバスチャンは深くうなずいた。
緊張の面持ちで、葵もうなずく。
半信半疑の好恵は、軽く肩をすくめながら僅かに首を縦に振った。
確認するように一度全員を見まわしてから、芹香は魔法陣の端に立った。
方角で言えば、魔法陣の南側に北を向いて立っていることになる。
ややあって、芹香はぽそりぽそりと呪文らしき言葉を紡ぎ始めた。
「・・・・ve・・・・gy・・low・・・a・・・・・」
偉大なる、剣、法、放矢、調和、弓、安定。
聞き慣れない不可思議な言葉に混じって、幾つかの日本語がちりばめられている。
芹香の声がそもそも聞き取りにくいということもあって内容までは理解できないが、恐らくは芹香独自のアレンジが加えられた呪文であろう。
儀式が幾らか進んだ頃、コツン、という軽い音が綾香たちの耳に響いた。
その発生源を探した綾香、葵、好恵は、ギョッとしてすくみ上がる。
高層ビルの最上階の、その窓の外に、翼を持つ異形の魔物がぶつかっていたのだ。
「姉さん!魔物が・・・・!」
思わずファイティング・ポーズを取ってしまう綾香をちらりと見て、芹香は短く、信じて、と言い、一心に呪文を唱える。
でも、と反論を言いかけて、綾香は信じ難い光景を目にした。
魔物は、叩き割ろうとして窓にぶつかっていたのではなかった。
芹香たちを食らおうと飛来したわけではなかった。
流されていたのだ。
その流れに抗おうと、必死の思いで窓に手をかけようとしていたのだ。
その努力も空しく、魔物たちは得体の知れない力に、次々と流されていく。
これが、魔術か。
そう納得してしまうと、三人は端から一心に念じているセバスチャンに倣い懸命に祈りを捧げた。
一人が、平穏を願った。
一人が、成功を信じた。
一人が、解決を念じた。
一人が、戦士を望んだ。
一人が、勝利を祈った。
思いは激流となる。
南から北へ、異形の怪物を根こそぎ呑み込みながら。
夜の帳が周囲を完全に支配してしまう頃になって、漸く芹香は呪文を止めた。
「・・・・・・」
「は。お嬢様のお蔭で、この場は何とか凌げたようでございますな」
慇懃に、セバスチャンが芹香に頭を下げる。
残る三人は、がくりとその場に座り込んだ。
為すべきことは山ほど残っている。
まずは――状況を確認しよう。
すべてはそれからだ。
セバスチャンに支えられた芹香が寝所に向かうのを眺めながら、綾香はそう思い安堵と疲労の入り混じったため息をついた。

状況の調査と救援活動は、夜を徹して行われた。
それに参加した人員も、駐留アメリカ軍や来栖川を含む民間企業の社員など、膨大な数に上った。
無論、綾香たちも参加していたのだが、途中から調査や救援はその筋の専門家に任せて、彼女らが専門とせねばならないことに従事していた。
すなわち、芹香による魔法陣の作成である。
芹香が作成・使用した魔法陣は、所詮一時凌ぎに過ぎないのだという。
また、その機能は原則としてあの怪物――芹香によれば、混沌の魔物、だそうだ――を一定方向から引き寄せて一定方向へ押し流すという限定されたものだという。
一度機能を始めればしばらくは持つはずだが、恒久的なものでもなければ絶対的なものでもない。
機能する範囲も、とりあえずこの島を覆うためにも少々足りないというものでしかなかった。
もっと強力なものを作りたいところだが、それには時間も手間も材料もかかる。
また、今回はたまたま上手くいったが、芹香の魔法が絶対的な成功率を持っているわけではないことは、当の本人も認めるところだった。
そこで、綾香の提案により、今回効果を発揮した魔法陣と同じものをポイントを絞って作成し、全体としての信頼性を高め当座の安全を確保するということになったのだ。
要は、万一魔法陣の機能が失われた場合への備えと、何より精神衛生のために数を揃えておこう、という理屈である。
アメリカ軍は最初この考えを笑い飛ばし、有事に際して道楽に耽っている来栖川の玲嬢に眉をひそめた。
が、程なくしてその考えを改めざるを得なかった。
各所との交信の結果、世界中ほとんどの地域がハワイと同様の災厄に見まわれ、そして為すすべなく魔物どもに蹂躙されているらしいことが判明したためである。
半ば狂気の混じったペンタゴンの要請に応えアメリカ本土救援のため出航した第七艦隊は、数日後消息を絶つ。
詳しい事情はわかりようもなかったが、北回りに航路をとった彼らは、ハワイから追い出された魔物どもにやられてしまったのだろうとの風評が立った。
この状況下にあって、芹香は混沌の魔物に対するより有効な手段を手に入れようと、精力的に魔術的な研究を行っていた。
綾香、好恵、葵の三人は、主に政治的な問題にあたっていた。
ともすればパニックを起こしかねない市民をなだめ、一方で魔術以外で状況を打開する手段が無いか調査に奔走する。
来栖川重工の研究開発センターがハワイにもあったのは僥倖だった。
そこへ、HM研究課の半数以上がバカンスを兼ねて研修に来ていたのは、更なる幸運であったというべきだろう。
その集団のリーダー長瀬源五郎がセバスチャンの実子であったことは、冗談じみた偶然であったのかもしれないが。
綾香は、源五郎の協力を受けて打てるだけの手を打った。
まずは、綾香も知らなかったことだが、来栖川の私兵が若干ではあるがハワイに存在していたので、これを指揮下に収めた。そもそも、ハワイの研究開発センターが(公には出来ないが)軍事部門だと聞かされたのもこの時である。
同センターの技術者も半数以上が混沌の魔物に襲われ命を失っていたが、なんとか生き延びた者たちには芹香と協力して対混沌兵器の研究開発にあたるよう指示を出す。下手をすれば自分たちの命に関わるとなれば、技術屋連中もそれこそ必死に研究に没頭した。
好恵は、他に出来ることが無い、と来栖川の私軍で訓練を受け、じっとしているのが耐えられないのか、葵もこれに倣った。
源五郎はセリオタイプのメイドロボが使用している数台の情報衛星マザーセリオの情報網を駆使して世界中の情報を収集した。
その結果、幾つかの地域で化学兵器と核兵器が使用されたことが判明。慌ててNBC廃棄物への対応を迫られることになる。
来栖川の研究開発ドックでは数隻の軍艦が急ピッチで建造・改装され、航空開発部では試験段階にあった戦闘機が臨時に生産ラインに乗せられた。
CDSが開発されたのも、ちょうどこの頃のことである。
そうこうするうちに一月過ぎ二月過ぎ、状況が幾らか膠着気味の安定を得て、そして物資の枯渇が切実な問題となり始めた頃、源五郎は電波異常の影響でめっきり使いづらくなった衛星情報の中に気になる情報をキャッチした。
日本に残してきたオリジナル・セリオ、HMX−13から衛星へのアクセスが現在も行われていることを、ログが告げていたのである。
発信地は日本。
来栖川本邸となっていた。


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