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恐慌戦士〜フィアフルソルジャー〜 ――3.強襲

滝川は、街を僅かに迂回し、西方面より延岡市街の様子を窺った。
延岡は、日向路を行き交うならば地勢上どうしても通らねばならない交通の要衝である。臆面も無く九州の首都を名乗って憚らない福岡などと比べればさすがに見劣りするが、地方都市としては充分大きな部類に入る。しかし、かつては相応の繁栄を見せていたであろう街並みも、今は街灯の灯りすら無く闇夜に静まり返っていた。
宮崎陥落より十日余り、たったそれだけの時間でも街が死ぬには充分。所詮、人無くして街は有り得ないのだから。
「いきなり鉢合わせは勘弁して欲しいよな……」
呟きつつ、滝川は士魂号を街へと侵入させた。
囮である以上、敢えて過剰な隠密行動を取る必要は無い。ガシャガシャとキャタピラ装甲が揺れる耳障りな音を立てながら、標準歩速で市街地に歩み寄る。廃墟と化したビルが見えたところで短いダッシュ。勢いをつけておいて、ビルの上に飛び乗り視界を確保する。
今回の作戦においては、当然だがオペレーターは不在。すなわち、戦場で頼るべき「目」を欠いた状態で戦わねばならない。士魂号の光学モニターが映し出す映像とサウンドセンサーが拾う音だけが、滝川に与えられる外部情報である。そうなると、可能な限り視界を確保しておくべきだと思えた。
夜間戦闘用のアクティブライトが街を照らす。街並みは、見事なまでに破壊され尽くしていた。幻獣は、どういうわけか人工物を嫌う。その衝動のままに薙ぎ倒され、踏み潰された家々の姿は、どうにも嫌悪感を誘う光景だった。
ぐるりと周囲を見回すが、とりあえずのところ敵影は無い。だが、ピリピリとした不穏な緊張感を感じる。瞳に映らない何かが、確かにそこに存在するように。滝川などが知るところではないが、戦闘用に特化調整された第六世代の超常的なまでに鋭敏な感覚が、未だ実体化していない幻獣の気配を捉えているのだ。オペレーターやサーチャーは、実のところ通信機器や計測機器の扱いに長けているというよりは、この感覚能力を磨き鍛え上げたスペシャリストなのである。
だが、滝川はお世辞にも感覚が鋭いとは言い難い――どちらかと言えば鈍い部類である――し、もちろん専門的な訓練を積んでいるわけでもない。その滝川が気配を感じるというだけでも、延岡に潜む敵が並々ならぬ相手であることの証左となろう。
「士魂号、滝川より本隊。現時点で異常無し。敵影も無し」
短く通信を入れ、滝川は次の移動先を求めて視線を走らせた。長く遠距離砲戦を専門にやってきただけに、射線と視界を確保した上で極力敵の攻撃を受け難いポイントを見抜く目は確かである。すぐに、倒壊したビルの廃墟に目をつけ、何度かジャンプしてコンクリートの小山の頂上に立つ。
路面状態がよくない。他を圧倒して不整地に強い士魂号でも、ジャンプ機動以外での移動を躊躇するほどだ。高機動車で突入をかけるという手筈であったが、これでは装輪車輛の高速性能を活かせないのではないだろうか。
「こちら、士魂号、滝川……」
万一のことがあってはならないと思い、街の状況を伝えようと本隊をコールしたその時、滝川の背筋にゾクリと冷たい感覚が走った。
さては、と思い慌てて周囲を窺えば、果たして今まさに闇夜に本来の自然には有り得ない揺らぎが現れるところであった。正確にはわからないが、かなりの巨大な影、相当の広範囲にわたる揺らぎである。
「V4、V4! 幻獣実体化の兆候あり。くそっ、速い!」
虚空の向こう側から染み出るように、揺らぎが確かな質量へと変わっていく。それは、人が構築した科学という概念においては、決して有り得ない存在。
焦燥を感じつつ四方を確認する。とにかく、包囲されることだけは避けねばならない。味方の援護が期待出来ないとあっては、なおさらだ。
ややあって、西の一角に手頃な廃墟を発見。高さは少し足りないが、周囲に死角となる構造物が少ないのがいい。西に同じような瓦礫の山、南に壊れかけのビルがあり、その方向だけは見通しがよくないが、距離的にはそれほど近くなく、不意を打たれる可能性は低いと思える。それどころか、いざとなれば退路に使えるはず。それもこれも、士魂号の機動力があればこそだが。
「あそこなら、なんとかなるよな」
自分に言い聞かせるように呟き、滝川は愛機を素早く跳躍させ瓦礫の山に飛び乗った。
すぐに振り向き、周囲を確認。幻獣たちは、既に実体化を終えようとしていた。先刻毒づいた通り、実体化のペースが速い。
一際巨大な影はミノタウロスか。少し小振りと感じるのはゴルゴーンかキメラか、どちらにせよ背が低い多足歩行型の幻獣だろう。随分と平らな印象を受けるものは、恐らくきたかぜゾンビ。ローターの端は、既に実体と化している。存在しないのか見落としているのかはわからないが、小型幻獣の姿は無い。
「へへっ、ツイてるぜ……」
震える声で無理に軽口を叩き、ジャイアントアサルトを構える。もっとも、相手が実体化するまでは撃っても無駄だ。小刻みに息を震わせつつ、滝川は慎重に狙いを定める。最初に狙うのは、きたかぜゾンビ。足の速い相手は出来るだけ早く潰しておきたい。
照準を定めつつ、滝川は伍長から聞かされたジャイアントアサルトを使用する際の注意を頭の中で反芻した。
現在、滝川の士魂号は色々な意味で標準規格からは外れた状態である。得物であるジャイアントアサルトも例外ではない。特に損傷は無かったのだが、完全に規格の合う弾薬の持ち合わせも無かったのだ。そのため、やむを得ずジャイアントアサルト自体を改修し、運良く中隊に在庫があった重機関砲弾を転用している。この弾の規格は、本来のジャイアントアサルト弾より僅かに口径が小さく、薬莢が大きく炸薬量が多い。このため、このジャイアントアサルト改は弾道が今ひとつ安定せず、かつ薬室に過大な負荷が掛かるため連射は御法度という欠点があった。作戦に先駆けて零点規正を行ってはいるが、有効射程距離は本来の3分の2程度と考えた方がよい。最大射程距離はむしろ増加しているのだが、それ以上の距離ではサイトがあてにならなくなるのだ。代わりと言っては何だが、初速増大により威力自体は上昇している。
心細い単独行動、強大な敵集団、そして扱い難い兵器。よくもまあ、これだけ悪条件が揃ったものだと、場違いな感想すらも浮かぶ。条件がどうあっても、滝川は戦うためにここに来たのであり、戦うより他無いわけではあるが。
実体化した瞬間に、初撃を与える。そうすれば、相手がこちらの動きに追随するまで、後もう一射はできるはずだ。
滝川は、そのように考えをまとめ、必要も無いのに息を潜めてその時を待った。
そして、輪郭が確かな外殻を備えた瞬間。
「目標、実体化! これより交戦に入る!」
自身を急かすかのように早口で無線機に告げ、滝川はトリガーを引き絞った。
ズドン、と通常のジャイアントアサルトより重い轟音。装填されているのは、元々装甲車輌用の機関砲弾だ。92mmライフルほどではないにしても、かなり反動が激しいため、片手保持や無理な体勢では満足な命中精度を得られない。両手保持でしっかりと構えねばならず、そのため有効射角が幾分狭くなる。
射程距離、射角共に平常に劣るジャイアントアサルト改の一撃は、しかし首尾よくきたかぜゾンビのウィークポイントを捉えた。すなわち、砲弾は吸い込まれるように可動部分、きたかぜゾンビのメインローター連結部にぶち当たったのである。
きたかぜゾンビは、浮遊自体はローターによって行っているわけではない。かの寄生幻獣が宙に浮くのは、群生する微細な浮遊型幻獣の力による。しかし、この化け物は推進にヘリのローターを模した甲殻を使用する。まるで、ヘリの動きから空中機動の手法を学んだかのように。従って、ローター周りは装甲化されておらず格好の狙いどころとなる。もちろん、空中を飛ぶきたかぜゾンビの更に上を取るなどという真似は、航空機やヘリ以外には士魂号ぐらいしか出来ないのであるが。ともすればウォードレス装備よりも破壊力に劣るジャイアントアサルトが強力な武器たり得るのは、ひとえにこのような敵の弱点を突くことを可能にする士魂号の機動力の賜物である。
「初弾、命中!」
ジャイアントアサルト改は、射程距離においても射角においても元々のジャイアントアサルトに劣るが、純粋な破壊力だけはオリジナルに倍する代物であった。撃ち込まれた砲弾は衝撃で周囲の装甲を押し潰しつつ、紙のようにきたかぜゾンビを貫いた。それが致命傷となり、つい今しがた実体を持ったばかりの高機動浮遊幻獣は、追い返されるように実体を失っていく。
「きたかぜゾンビ、撃破!」
高らかに、宣言する。兵の士気を高めるため、撃破を報告するように、という中尉の指示に従っての宣言だ。目算通りと言うべきか、無線機の向こうからは、おぉ、というため息混じりの歓声が飛び込んで来た。自衛軍の陸戦部隊、特に戦車部隊にとっては、きたかぜゾンビは厄介な相手のひとつである。それを、一撃で撃破したのだから、そのような反応も当然であろう。たとえ、それが充分に整備された士魂号であればままある結果だとしても。
兵たちの声に少しだけ心を励まされながら、滝川は改めて己を取り巻く状況を確認する。唸りを上げつつ顔をしかめた。
目に入るだけで、ミノタウロスが6、ゴルゴーンが4、キメラが4ときたかぜゾンビが3。こちらの砲弾は、物理的な容量の関係上1マガジンにつき6。予備マガジンは、右足と腰にある二つ。薬室に1発目を入れた状態で出撃したので、最初だけ7発撃てる。たった今1発使ったので、残弾18。目標の数とほぼ同じだ。
キメラならば、まあ一発で仕留められるだろう。きたかぜゾンビも、上手く狙えばどうにか一撃で沈められる。しかし、装甲が分厚い上に狙撃がほぼ不可能な関節部以外にこれといったウィークポイントが無いミノタウロスやゴルゴーンとなると、そうはいかないだろう。
弾が、足りない。
防衛作戦のように、補給に戻るというわけにもいかない。
「畜生、どうするよ?」
無線の向こう側に聞こえないよう、噛み潰すように小声でそう毒突く。
こちらへ向き直りったきたかぜゾンビに一射。少々狙いは外れたが、砲の威力にカバーされ、またも一撃で撃ち落とす。
「きたかぜゾンビ、撃破!」
報告を上げつつ、滝川はどうにか方策をまとめようと、無い知恵を振り絞る。陽動が主任務とはいえ、万一引き付け損ねた幻獣が突入部隊の迎撃に回った時のことを考えれば、出来得る限りの敵は倒しておかねばなるまい。どの敵を、優先的に潰すべきか。
長大な射程を誇るキメラ。歩兵にとっては、厄介極まりない相手のひとつだろう。滝川にしても、引き付けるのが難しい相手だと思える。撃破せねばならない。
足が速く上空を飛行するため、車輛に対しては圧倒的な優位を持つきたかぜゾンビ。是が非でも倒さねばならない。
ゴルゴーン。長射程の生体ミサイルは、威力も充分でかなりの脅威だ。足も速いので、討ち漏らすわけにはいかない。
ミノタウロス。最悪の相手だ。歩兵部隊が出くわせば、逃げる以外に手の打ちようが無いだろう。出来る限り、撃破しておきたい。
結局、どれもこれも放置するわけにはいかない相手ばかり。作戦開始に先立って、半ば強がりで、デカイのは任せておけ、などと口走ったが、どうやらその言葉を実践しなければならないようだ。
敢えて残すとすればミノタウロスだろうか。足の遅いミノタウロスであれば、引き付けながら後退することも幾らかは容易だろう。
そう思いつつ、滝川は士魂号に地を蹴らせた。そろそろ、敵の射界に捉えられる頃合だったからだ。オペレーターがいれば、今自分に牙を向けている幻獣の様子も簡易マップにより知ることが出来るのだが、生憎今はカンに頼るしかない。もっとも、滝川とて幾度もの戦いを潜り抜けてきた経験がある。長距離砲戦に関する限り、距離や射角の掴み方にはそれなりの自信があった。
戦場には、呼吸のようなものがある。
敵が、いつ攻勢に出るのか。どれほどの間、攻撃を続けるのか。火線が切れるのは、いつか。誰も合図などくれずとも、たとえ相手の姿が見えずとも、漠然とその時がわかるものなのだ。敵も、味方も。
その上で、どう相手の裏をかき有効な砲撃を与えるか。それが、兵士個人のレベルにおける戦場の駆け引きであり、決して教導書には書かれない類の戦いの要諦であった。
短いジャンプで瓦礫の狭間を駆け抜け、最後に大きく跳躍し南のビルに飛び乗る。すぐさま振り返り、慎重に狙いを定めトリガーを引き絞った。
狙いは、きたかぜゾンビ。当たれば強烈な重機関砲弾が、更に1体のきたかぜゾンビを撃ち抜く。
空中のきたかぜゾンビがグラリと傾き、爆風に煽られ滑るように滝川の視界を横切りビルに激突。幻獣であるが故に爆発こそしなかったが、そのまま壁沿いに落下、万能ヘリの機体と一体化した体躯が割れる嫌な音を立てつつジワリと非実体化していく。
まだだ。残る1体もすぐ近くにいる。
続けざまに一射。狙いは僅かに逸れ、尾翼を吹き飛ばすに留まった。ただ単なるヘリであれば致命打だろうが、寄生幻獣であるきたかぜゾンビにとってはそうではない。
舌打ちをひとつ響かせ、更に一射。今度はピタリと獲物の中心を捉え、変り種の寄生幻獣は空中で四散する。
「きたかぜゾンビ、2体撃破。きたかぜゾンビは、これで終わりだ!」
無線に向かってがなりたて、滝川は呼吸を整えようと大きく息をついた。ジワリと、首筋に汗が浮かぶ。
昂ぶっているのだろうか。
それとも、焦り?
都合5発の砲弾で、4体のきたかぜゾンビを屠った。悪い成績ではない。むしろ上出来だ。しかし、無駄弾を使ってしまったのは事実。ただでさえ余裕の無い今の状況においては、たった一発の無駄弾が痛恨事にすら思えてくる。
もっとも、今更悔いたところでどうなるものでもない。滝川は、ゴクリと唾を飲み込み次の行動に移った。
次なる目標はキメラ。こちらに倍する長射程は厄介極まりない。しかし、敵の布陣は、前面にミノタウロス、少し離れてゴルゴーン、その更に後ろにキメラという構え。キメラを撃つには、回り込まねばならない。
左手前方に迫るミノタウロスを一瞥し、滝川は士魂号を右へと跳ねさせた。そこかしこに転がる巨大なコンクリート塊を巧みに避けつつ、素早く連続ジャンプ。ゴルゴーンが、その動きを追い器用に身を捻る。それに応じ、滝川は更に機体を跳躍させた。
既に、相手の射程距離内だ。迂闊に止まることは出来ない。士魂号の機動力をもってすれば、いつかは幻獣の追随を振り切ることが出来るはず。その瞬間が来るまで、とりあえずのところ敵の射線をかわし続けるしかない。
右へ、左へ、不恰好な士魂号が不格好なステップを踏む。それは、ある種の踊りに似ていなくもなかったが、絢爛舞踏とは程遠い。逃げ場を求めて跳ねまわる、追い立てられる者の滑稽なダンスだ。主導権は、滝川には無い。
五分もしないうちに、滝川は音を上げた。元々、回避機動は肉体的にも精神的にもパイロットに相当の負荷が掛かる。相手の行動に応じて素早く判断し、跳び退かねばならないのだから、当然といえば当然だ。
だが、滝川が音を上げたのには、もうひとつ理由があった。
呼吸が、合わない。
息が乱れている。
これといって特筆すべきミスを犯しているようなことは無いはずだが、攻勢に出るタイミングがまったく掴めない。懸命な回避行動にも関わらず、ひとつの射線から逃れれば、すぐに別の射線に捉えられる、という状況が先刻から続いているのだ。これでは、滝川で無くとも降参したくなる。
滝川自身は気付いてはいないが、このような事態を招いている原因は単純だった。滝川の行動は、早過ぎるのだ。確かに、滝川は士魂号の高機動を十二分に活かし、幻獣にほとんど攻撃の機会を与えてはいない。しかし、その一方で滝川は被弾を恐れ「待つ」という行動が出来ていなかった。相手が実際に攻撃を加える、その直前まで待たずに移動するから、幻獣側が照準修正を行うタイミングをまとめることが出来ず、結果敵戦闘集団が静止するタイミングというものを作れずにいるのだ。
たとえ敵弾を受けることが無くても、こちらから攻めることが出来ぬのでは意味が無い。救援が駆け付けるまでの時間稼ぎとでもいうのならまだしも、今成さねばならないのは幻獣勢力に痛撃を与えて誘き出すこと。一見上手く立ち回っているように見えて、実のところ滝川の行動は無駄以外の何物でもなかった。
戦場には、タブーが幾つかある。わけても、個人の戦技のレベルにおいて、呼吸を乱すことはしばしば致命的な結果を生む禁忌だ。猛ってもいい、怯えてもいい。だが、戦場の「呼吸」を見誤ってはならない。
滝川は、まさしくこの犯してはならない目に見えぬミスに囚われていた。
何故。何故、これだけ動いているのに敵の追随を振り切れない?
己の失策に気付くことも無く、ただただ焦りが募るばかり。
滝川は、ついに堪えかねて、眼前に見えた廃墟の影に士魂号を潜り込ませた。
オペレーターがいればまた別だろうが、これでは相手の動きが見えない。しかし、士魂号を休ませる必要もある。このまま高速機動を続けていれば、今に人工筋肉が使い物にならなくなってしまうだろう。言い訳めいたことを考えながら、滝川は深々と息を吸い込み、震えながら吐き出した。
全身に、汗が噴き出す。滝川は、一旦ヘッドセットディスプレイを外し、自らの発汗に曇り始めたゴーグルをずり降ろした。
ゴーグルに反射する自分の顔が、やけに焦燥して見える。
手詰まりなのか?
こんなところで。
「畜生、どうしたらいいんだ」
戦う覚悟は決めたつもりだ。自分をおいて他に、中型幻獣と正面から遣り合える戦力が無いことも理解している。しかし、だからといって精神の奥底に眠る恐れを一朝一夕に払拭できるものではない。
狭く暗いコックピットが、後ろ向きの思考を助長する。最悪の未来予測が脳裏をよぎり、そしてそれっきり離れようとしない。滝川は、もう自身の震えを止めることすら出来なくなっていた。
「十翼長、状況はどうか」
無線から、落ち着いた調子の大尉の声が聞こえた。いかなる状況においても、恐らくは最期のその瞬間まで、己の腕を信じ信念をもって任務を果たす、自信に満ちた声だ。
「えっと……」
滝川は、喉まで出掛かった泣き言を、グッと堪えた。大尉の声を耳にして、なおも軟弱な言葉を吐くのは、酷く恥ずかしいことのように思える。彼らが行うべき突撃作戦とて、滝川が晒されている危険に勝るとも劣らないのだ。それなのに、自分ばかりが泣き言を言えるものか。
「現在、敵の陣形を崩すべく機動中。少し待ってくれ!」
結局そう答え、ピシャリと両の頬を張った。ジンと響く痛みが、少しだけ心を引き締めさせる。
そうだ、ここまで来て怖気づいてどうする?
そう思う一方で、滝川は自らの強がりに嫌悪を覚えていた。
俺は、嘘をついている。
正直に状況を伝えるべきではないのか。彼らは、戦場のプロだ。何かしら、打開策を知っているかもしれない。いや、それ以前に、自分の強がりが原因で全軍を危地に落とし入れるようなことになったら、それこそ言い訳出来ないというのに。滝川のことをエースとでも思っているかのような、彼らの幻想を早めに正してやるべきなのではないか。その方が、お互いのためだとすら思える。
俺は、エースなんかじゃない。そうなりたかったけど、俺には無理だった。
エース、アルガナ、ヒーロー。
聞いて呆れる。そんなご大層なものを目指せるほど、俺は強くない。せいぜい速水のおこぼれを拾って、壬生屋を盾に後方展開するぐらいのことしかできないくせに。
あるいは、大尉たちはそんなことは先刻承知なのかもしれない。わかった上で、絶望的な状況下で部下や民間人に対して無理にでも希望を持たせるために、滝川と士魂号を担いでいるだけなのかも。
もし、そうだとしたら。
そうだとしたら――
それはそれで構わない。
そう思えた。不思議と、憤りは感じない。
むしろ、こんな情けない自分に、利用する価値があるのなら幾らでも利用して欲しいとすら思う。
それが、希望に繋がるのなら。
そのための嘘なら、強がりなら、恥じることなどない。
パァン、と、もう一度自らの頬を叩く。
「よっしゃ、やるかぁっ!」
今、自分に期待されていることは。
今、自分に出来ることは。
少しでも、ほんの少しでも希望を広げてやることだけ。
心臓は早鐘のように忙しなく打ち続けているし、吐く息は短く荒い。恐れだって、消えていない。
それでも、今度こそ上手くやれる。やってみせる。
その決意と共に情けなく震える歯を噛み締めて、滝川は周囲の地形を確認した。
この状況から抜け出すためには――
まず、一目散に離脱する。
それから、急速反転、敵に背を見せるリスクを最小限に抑える。
そして、理想的とはいかぬまでも充分有効な砲撃が可能な地点を占める。
これらの目的に適った道は――
あった。
ひとつだけ、比較的瓦礫の少ない、まっすぐに伸びる道。その先に、どうにか崩壊を免れているビルがある。
これだ、と思った瞬間には、滝川は士魂号を駆け出させていた。
脚部パワーゲインを一気に最大値まで引き上げ、なりふり構わず全速力で通りを駆け抜ける。第六世代以外には耐えられぬ、強烈極まりないGが身体を背面に向けて押し潰す。中に乗っている人間も堪らないが、士魂号自身の負荷も並大抵ではない。人工筋肉が悲鳴を上げ、血圧計の針が振り切れる。整備兵が見れば目を回すような無茶な機動だ。滝川が潜伏していた地点目掛けて進撃していた幻獣たちが、その背を捉えようと慌てて射線を向けるが、さすがに追随できない。
疾風の速さで駆ける士魂号の眼前にビルが迫る。さほど背の高い建築物ではなかったが、激突すればただでは済むまい。
「こ…のぉ…」
苦しげに呻きつつ、ビル目掛けて軌道の低いジャンプ。蹴り付けるように壁面に足をめり込ませ、勢いをつけて更に跳躍、左に身を捻る。
三角跳びの要領で急速反転した士魂号が跳び行く先には、小高い瓦礫の山。ズシン、と重い音を響かせつつ、滝川の駆る士魂号は上手く瓦礫の上に飛び乗った。
このような動きをすれば、パイロットに掛かる負荷は並大抵のものではない。滝川は、ゆらゆらと消えていきそうな意識を、激しくかぶりを振って無理に引き戻した。幸い意識を失うことは無かったが、それでも数秒は攻撃に移れない。視神経が一時的に麻痺し、目の焦点が定まらないのだ。
一秒、二秒。ようやく視界が戻る。
幻獣たちは、敵の予想外の動きに慌てふためき、ようやく射線を滝川機に向けようと身を捻っているところであった。手前に突出しているのはゴルゴーンが1体。その奥に、キメラが2体。そこまでが有効射程距離内だ。ミノタウロスは、未だ士魂号に追い着くことさえ出来ていない。
「邪魔だぜっ!」
怯えを吹き飛ばすようにヒステリックな調子で叫び、滝川はゴルゴーンをサイトに捉える。連射は控えろと言われたが、この状況ではそんなことに構ってなどいられない。一呼吸の間だけ狙いを付け、息を吐き切ったところでダブルタップで砲弾を叩き込む。
立て続けに2回の轟音と閃光が走り、ゴルゴーンが飛び跳ねるように後ろ立ちになる。そのまま、グラリと揺れたかと思うと地に倒れ伏した。
滝川は、この間に弾倉を交換。空マガジンは腰のキャタピラ装甲に増設されたポケットに仕舞い込む。普段なら捨ててしまうところだが、今は物が惜しい。
キメラの射線が、士魂号に向けられる。
反射的に、跳び退くか、とも考えたが、生憎適当な退避ポイントの目算を立てていない。それに、漸く射程内に捉えたキメラだ。ここで落としておきたい。
目標を確認。構え、狙い、撃つ。ともすれば一挙動でそれをやってのけたかのように見えるほど素早く、滝川は右手前方のキメラを狙い撃ちにする。僅かに撃ち下ろす体勢、射撃姿勢としては申し分ない。これだけの体勢を整えれば、もとより遠距離砲戦に長ける滝川の腕は確かだ。目論見通り、砲弾はキメラの甲殻を貫き、噛み砕いた。
幻獣とて黙って的になってくれるほど間抜けではない。残る1体のキメラが中距離レーザーを放つ。展開式増加装甲でもあれば難無く受け流すことの出来る程度の光圧だが、滝川の軽装甲、まして完全とは言えない状態の機体に食らえば、なかなか馬鹿に出来るものではない。
滝川は、咄嗟に瓦礫の影に隠れようと回避機動に入るが一瞬遅く、たなびいた腰のキャタピラ装甲が何葉かレーザーに圧し焼かれ、もぎ取られる。
「うわっ!」
短く悲鳴を上げ、滝川はほんの一瞬だけ士魂号のコントロールを失ってしまった。機能的に問題の出る被弾ではなかったが、回避機動に入ろうとした一瞬に受けた一撃だ。士魂号が体勢を崩すのには、それで充分。バランスを失った士魂号は蹴躓いたように転倒し、瓦礫の山を文字通り転がり落ちた。
天地が反転し、さながら洗濯機で回されているかのように翻弄され、わけのわからない方向から衝撃を受ける。
「ひぃ、畜生っ!」
上擦った声で文句をたれつつ、滝川は必死で士魂号を立て直す努力をした。
左腕を地面に叩き付けるように不恰好な受身を取る。これでどうにかそれ以上の転落を防いだ――もっとも、既にほとんど瓦礫の山の麓にまで到っていたが。立ち上がっている暇は無い。そのまま、伏射の姿勢でサイティング、ジャイアントアサルトのトリガーを引き絞る。
ドゥン、という振動が、地に伏した士魂号のボディ越しに腹に響く。放たれた砲弾は、追撃の一射を狙っていたキメラの中心線を見事に射抜き、消滅を確かめるまでも無いほどバラバラに吹き飛ばした。
「はぁっ、ふぅーっ、くそったれ!」
荒い息で誰にとも無く罵声を呟きながら、滝川は士魂号を瓦礫の影で立ち上がらせる。
「どうした、十翼長! 無事か!」
派手に響いた転落やら伏射やらの音が無線越しに届いたのだろう、スピーカーから荒っぽくも気遣わしげな大尉の声が漏れてきた。
「大丈夫です!」
そう怒鳴り返して、滝川は唾を飲みこみ息を整えつつサッと計器類に目を走らせる。
血圧計がレッドゾーン。だが、人工筋肉増設に伴う調整の結果、血圧は元々警告ギリギリのラインであったはず。とりあえず、機体の不調を感じることがなければ問題無いだろう。
左手関節部にイエローアラート。先ほどの受身で、ジョイントに狂いでも生じたのだろうか?
他幾つか、オートリペアマークが点灯している。緊急処置が済んでいるのなら、当面大丈夫のはずだ。
「撃破! ゴルゴーン1、キメラ2!」
まだ、やれる。
いや、やらねば。
「損傷軽微、作戦を続行ッ!」
それだけ告げて、滝川は次の獲物を求め士魂号を走らせた。
手近な瓦礫の山に跳び乗り、視界を確保。サッと周囲に目を走らせれば、足の速いゴルゴーンが突出しているのが見て取れた。優先目標はキメラだが、どのみちゴルゴーンも潰してしまう心積もりなのだ、先に撃破しても問題は無いだろう。
「ゴルゴーン捕捉。攻撃に入る!」
雄叫びのごとく宣言し、ゴルゴーンを射界に捉えるべく再び駆け出す。
滝川は、まだ気付いていない。
踏み止まることに躊躇いを感じていないことに。
被弾をものともしていないことに。
彼は今、確かに戦士として戦場を駆けていた。


滝川より撃破の報が知らされる度に、砲撃陣地はため息のような歓声に包まれた。既に、きたかぜゾンビ4、キメラ4、ゴルゴーン2の撃破が伝えられている。彼らの所属する中隊では、とてもではないが上げられない戦果だ。
中隊の士気は、いや増していた。単機これだけの戦果を上げる士魂号と滝川に感嘆する声もあれば、砲撃位置や隠密行動の問題から支援を行えないことを悔しがる声もある。兎にも角にも、彼らは今すぐにも戦場に飛び出さんと、すこぶる意気盛んな様子であった。
「十翼長は、上手くやっておられますな」
満足げに兵たちの様子を眺めつつ、夜戦向けに炭を塗りたくったBDU姿の軍曹が、淡々とした中にも賞賛を滲ませて言う。大尉は、ああ、と短く答えてから、軽いため息と共に注釈を入れた。
「今のところは、な。一撃食らえば、わからん……さっきの被弾、文言通り軽微なものであればいいが」
「そうなのですか?」
きりりと太い眉を僅かに歪め、軍曹が真偽を尋ねる。大尉は、ゆっくりと首肯した。
「整備の連中に聞いたことだがな、どうも士魂号というのは相当にナーバスな機体らしい。ほんの一撃食らっただけで性能がガタ落ちしても不思議ではない、とのことだ」
ふぅむ、と、軍曹は幾らか深刻そうに唸る。
「では、急がねばなりませんな。あまり、十翼長にばかり負担を掛けるわけにもいきません」
「軍曹、他のどこに負担を掛けろというのかね。今は、十翼長に頑張ってもらうしかないだろう」
「確かに」
苦笑を浮かべつつそう応じてから、軍曹は不意に真剣な表情に転じて訊いた。
「どうでしょう、大尉。黄金剣の戦士から見て、十翼長は期待に応えてくれるとお思いですか?」
大尉は、験担ぎで戦場においても着けている胸の黄金剣突撃章を一瞥してから、わざとらしく肩を竦めてみせて問い返す。
「人を見る目は、君の方が確かだと思っているのだが、いかに?」
どちらからともなく笑みを浮かべ、軽く腕を打ち合せる。
「やってくれますとも、十翼長は」
「当然。虎の子と猫を見間違うものかね」
そうこう言っているところへ、またも撃破の報が入る。更にゴルゴーンを1体仕留めたらしい。
「そろそろ弾が尽きる頃合か。軍曹、第二小隊各員を待機位置へ進めさせてくれ」
「了解。第二小隊に進出を命じます」
「ああ、悪いが頼むぞ。第三分隊は少尉が指揮を採るから問題無いだろうが、第四分隊の連中は君が尻を叩いてやってくれ」
「お任せ下さい。まあ、その必要も無いかもしれませんが」
滝川の戦果に、部隊の士気はこれまでに無く上がっている。兵たちは、けしかけるまでもなく任務に邁進するだろう。
敬礼をひとつ決めて、軍曹は踵を返した。第二段階、突入作戦においては第二小隊を補佐するのが彼の務めだ。
立ち去る軍曹の背を眺め、大尉は身の疼きを抑える努力をしなければならなかった。指揮官であるが故に最前線に赴けない我が身が歯痒い。
「どうにも、いかんな。若いヤツの奮闘を見せつけられると」
静かに出立する第二小隊を見送りつつ、大尉はそうひとりごち、次なる命を下すべき時を待った。
やがて、その時を告げる知らせが入る。
「こちら士魂号滝川! ゴルゴーン1、ミノタウロス1撃破! 残敵ミノタウロス5体!」
大尉は、目を見開いて立ち上がり、鋭く指示を飛ばした。
「よし、よくやった! 十翼長、残敵を引き付けつつ漸次後退せよ。全軍に通達、作戦を第二段階に移行!」


後退の命を受けて、滝川は漸く人心地ついた思いで士魂号を街の外へと向けた。敢えて障害物を盾にせず、ミノタウロスの追撃を誘う。ミノタウロスは、こちらの意図に気付かないのか、今のところ馬鹿正直に滝川の後を追ってきてくれていた。
「へへっ! 鬼さんこちら、ってね」
滝川は、軽口を叩く余裕すら持ちつつ、後一歩のところで生体ミサイルの攻撃が届かない距離をキープしつつ、右へ左へと跳びつつ次第に街から遠ざかる。後は、突入部隊の検討を祈るばかりだ。
やがて、街に轟音が響いた。突入部隊を支援する、特科小隊の曲射砲支援だ。
さすがに、ミノタウロスたちの動きに動揺が走る。まんまと嵌められたことに、遅れ馳せながら気付いたのだろうか。
「おら、お前等の相手はこっちだよ!」
そう言い放って、滝川は生体ミサイルの射線をかわしつつミノタウロスの一団に急速接近、残り少ないジャイアントアサルト改の砲弾を浴びせ掛ける。
撃破には到らなかったものの、先頭のミノタウロスに命中。もう一度、こちらに注意を向けさせることには成功したようだ。しかし、それも前の3体だけで、残り2体は街へと向かおうとゆっくりと踵を返す。
無理にでも引き止めるべきか?
しかし残弾は僅かに1。とてもではないがミノタウロス5体を相手取れる状態ではない。
滝川は迷い、本隊に指示を仰いだ。
「士魂号滝川より本隊。ミノタウロスが2体、街に戻ろうとしている。どうしたらいい?」
そろそろ山並みに差し掛かっているためか、かなり酷いノイズ混じりで指示が返って来た。
「了解した。十翼長は、そのまま後退せよ。これ以上無理せずとも、時間は充分稼いでいる」
「了解。士魂号、後退します」
そう応えてから、滝川は充分に狙いを定めてトリガーを引き絞った。置き土産とばかりに放たれた最後の砲弾は、狙いあまたずミノタウロスの頭部を吹き飛ばし、その巨体を地に這わせた。槌のような両の腕が何度か狂おしく地を打ち付けていたが、ややあってその動きも止まる。
「ミノタウロス撃破! 残り4体、街に戻る。気を付けてくれ」
それだけ言い残し、滝川は作戦通り延岡西方、北方の町に向けて踵を返した。さすがに、ミノタウロスたちもそれ以上は追ってこない。
しばらく行ったところで、滝川は全弾を撃ち尽したジャイアントアサルト改を腰のウェポンラックに仕舞い、気休めに右肩の超硬度大太刀を引き抜いた。と、握ったはずの左手から、大太刀が零れ落ちる。どうやら、転倒した際に痛めたと思われる左手の状態は相当酷いらしい。
この左手直るかなぁ、などと思いつつ、右足で器用に大太刀を浮かせ右手で受け取る。この先幻獣と出くわすことがあれば、この大太刀だけが頼りだ。
そう思うと、不意に心細さを感じ、滝川は士魂号を歩ませつつ開放されたままの無線に耳を傾けた。聞こえてくるのは耳障りなノイズばかり。本隊との間にそびえる山並みに電波が遮られているのだろう。街から離れてしまったためか、砲撃の音も聞こえない。
暗闇の中を、ただ独り黙々と歩く。標準歩速で十数分ばかり歩いただろうか。前方に小さな街――もちろん、今では住む者とて無い廃墟に過ぎない――が見えた。
これが、北方の街に違いない。そう判断し、滝川は南側の街外れで士魂号に膝をつかせた。血流量を下げ反応電極のパルスパターンを落とし、ホットスタンバイに移行する。もうそろそろ、士魂号の連続起動時間許容限界であったからだ。
暗闇に沈む街は、静まり返っていた。士魂号を休ませると、無線のノイズ以外にはこれという音とて無い。
夜という時間は、しばしば人に詮無く頼りない想いを抱かせる。今の滝川のように、不案内な土地にあれば、不安定な立場にあれば、その傾向は一層強くなるものだ。静寂は、既に戦場の興奮が醒めてしまった滝川に、奇妙な不安を感じさせた。
今、自分は独りなのだという心細さ。
もしも、このまま大尉たちと合流することが出来なかったら。
こんなに不安になるのは、この狭苦しいコックピットに閉じ込められているからだ。特に理性的な理由も無くそう思った滝川は、周囲の確認もそこそこに背部コックピット・ハッチを開放した。途端に、暖かな春の夜風が髪をとき、微かな虫の音が耳に飛び込んで来る。開け放たれたハッチから煌々と輝く星々が見える風景は、滝川に尚敬高校近くに借りる下宿を思い起こさせた。あの部屋の窓は、そういえば閉めてきただろうか?
滝川の胸に、ふと、郷愁のようなものが去来する。
今頃、5121小隊の仲間たちはどうしているだろう。級友たちは、戻らぬ滝川の身を案じていてくれるだろうか。あるいは、もう死んだものと諦めてしまったのだろうか。霧に迷い彼らと離れてから一週間も経ってはいないというのに、彼らの姿が何故だかとても懐かしいもののように思えてならない。
ここから西へ――高千穂を抜け、阿蘇へ。後一昼夜も歩けば、熊本に帰れるだろう。彼我を隔てるのは、多寡だかひとつの山脈に過ぎない。
このまま、熊本まで歩いて行けるのではないか。
そんな考えが、ふと脳裏をよぎる。だが、滝川は力無くかぶりを振って自らの思考を否定した。
尚敬高校に辿り着くためには、地獄の大釜、阿蘇を抜けねばならない。幾らなんでも、自分には荷が重過ぎる。
それに、今更大尉たちを置いていくことは出来ない。彼らを置いていくということは、守るべきものを捨てることに等しいだろう。それだけは、どうしても己の矜持が許さない。
延岡を越えれば、大分は目と鼻の先だ。熊本に戻るのは、大尉たちを無事大分に送り届けてから。それから、福岡経由で熊本に戻ればいい。少々の寄り道だが、5121の連中なら笑って許してくれるだろう。
しかし、一度抱いてしまった悶々とした想いは、なかなか消し去ることが出来ない。
――でもよぉ……帰りてぇ。早く、帰りてぇよぉ。
どうにも止められない想いと、どうにもならない現実に、少し泣けてくる。
そんな埒も無い感傷に苛まれていたためだろう、滝川は無線から漏れ出てくる言葉を認識するのが少しだけ遅れた。
「…翼長……滝川十翼長、応答願います。十翼長、聞こえていたら応答願います!」
雑音混じりのか細い声だが、確かに自分の名を呼んでいる。
滝川は、ハッと顔を上げて無線に飛び付いた。
「こちら、士魂号滝川! 聞こえています、どうぞ!」
「十翼長……よかった、ご無事でしたか」
スピーカーから、聞き慣れない声が安堵のため息混じりに聞こえてくる。大尉や軍曹ではないし、後方で民間人を守る中尉の声でもない。追って滝川の許に来る算段になっていた連絡兵だろうか?
「士魂号、損傷軽微……だと思います。弾は撃ち尽くしちまったけど。そっちはどうですか?」
何の気無しに相手の状況を尋ねれば、沈んだ声がしばしの間を置いて返って来た。
「現在、民間人を誘導して北方を目指しています。十分で到着の予定」
民間人?
滝川は、怪訝に思い頭の中で言葉を繰り返した。民間人は、普通科第二分隊に守護され門川で本隊の帰りを待っているはず。
まさかと思いつつ震える声で問う。
「第二分隊ですか? 何かあったんです? 中尉は?」
「中尉は、門川死守のため第二分隊を率いて残られました。中尉から十翼長へ、命令を伝達致します。戦況急変により第二分隊は当初任務達成困難、滝川十翼長の特殊戦車隊に第二分隊の任を引き継ぐ。本隊到着まで死力を尽くし民間人を護衛すべし。以上です」
返答は、次第に消え入るように細い、力無い声となっていった。
「そんな……どうして!?」
滝川は、目の前が暗くなるのを感じつつ、悲鳴のようにそう呟いた。