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恐慌戦士〜フィアフルソルジャー〜 ――1.遭遇

悪運しぶとくと言うべきか、滝川陽平十翼長は死んではいなかった。だが、現在彼は半ば行動不能に陥っている。
負傷があるわけではない。モニターに顔面から突っ込んだ際に吹き出た鼻血と擦りむいた頬を負傷に数えるならば話は別だが。
簡単に言うと、道に迷ったのである。阿蘇でどうやって道に迷うのか、という疑問が無いでもないのだが、事実迷ってしまったものはしょうがない。滝川は、どうにも見覚えの無い山中で行動に窮していた。
「参ったなぁ……どこだよ、ここ?」
呟いてみても、答えがあるはずも無い。仕方なく、滝川は自ら苦手と思ってやまない、頭を悩ませるという作業にあたった。
一応ジャイロコンパスが備え付けられているので方向ぐらいはわかるのだが、カーナビどころか地図さえあるわけでなし、まして自分の現在位置もわからないとあっては何の役にも立たない。そもそも、人型戦車は位置把握だとかいう類の機能は全部オペレーターに頼り切りなのだ。この点に関しては、特に滝川だからどうこうという問題ではなかった。
士魂号M型の強さは、全てを削ぎ落とした強さである。固定武装を省き、誘導システムを除き、量産性を無視し、運用性能を度外視し、瞬間の機動力以外の何もかもを捨て去ったが故の強さである。殊に整備性の悪さに関しては有名なところであるが、その他にも、稼働時間が極端に短い、耐用性はウォードレス以下、臨戦起動に手間と時間が掛かり緊急時の対応が出来ない、等々、欠陥兵器の謗りを受けても仕方が無い欠点のデパートのような兵器だった。今回のように一度戦術誘導から外れてしまった場合、搭載されている無線がごく短距離しかカバーできないが故に友軍の救援を待つより他無いのも、山ほどある欠点の一つである。
要するに、滝川がどれほど無い知恵を絞ったところで、どうにもならないものはどうにもならないのだ。
しかし、そこはそれ「ゴーグルを掛けたサル」「悪知恵を身に付けた三歳児」「叡智から最も遠い男」と評される――無論本人は露ほども知らない評価だが――滝川陽平である。性格的にもじっとしていられるわけがなかったし、下手に動けばかえって状況が悪くなるかもしれないという考えに至ることもなく、しばらく頭を抱えて唸った後に弾き出した結論は以下のようなものであった。
「ま、とりあえず麓まで歩いてみっか。何とかなるだろ?」
いっそ清々しいほどにいいかげんな判断に従い、滝川はとりあえず低い方へ、低い方へと移動を開始した。士魂号に会話するための口が付いていれば、呆れて忠告したかもしれない。
南東に進んでどうするつもりだ、と。


最初のうちこそ鼻歌など響かせつつ気楽に行軍していたものの、すきっ腹を抱えたまま二日目に入ると、さすがの滝川も心底参ってしまっていた。
敵の追撃を受けているとでもいうのなら、また違ったのかもしれない。あるいは、善行や若宮、来須などといった、己を制御できる戦場の『プロ』であれば話は別なのかもしれない。だが滝川にとって、幻獣など影も形も見えない――正確には、それがあるかどうかもわからない――という状況で緊張を持続させるのは至難の業であった。
行く手には、放棄された家屋や、やはり人の気配が無い見慣れぬ町が幾らかあっただけ。軍共通周波数で開放したままの無線は、不快感を煽る雑音を拾うばかり。今更ながらに自分が孤立無援であることを思い知らされ、酷く心細い。
加速度的に悪化する愛機の状態も、その心細さを助長していた。
士魂号は、一度コールドスタンバイまで落としてしまうと自力で再起動することができない。スターターにあたる圧搾整流器が外装であるためだ。一応、ホットスタンバイからは反応電極の作用で起動することが可能であるが、ホットスタンバイでは人工筋肉を休ませることは出来ても人工血液の劣化を防ぐことは出来ない。生体部品に対する機体熱の影響も無視出来る範囲ではないし、微量ではあるがバクテリア燃料も消費し続ける。
戦闘行動も高速機動も行っていないとはいえ、既に丸二日近く起動状態にあるのだ。連続稼動制限時間を大幅に超過して酷使された士魂号の計器類が示す種々の計測値は、恐らく動いてあと一日、という酷い有様であった。
そういう状態であったから、夕闇の中に半ば廃墟と化しているとはいえ比較的大きな市街地を見つけた滝川は狂喜した。街自体は既に機能していないかもしれないが、これだけ大きな市街地ならば、哨戒機なり偵察車なり、軍の通信網と接触できる可能性が高いからだ。
「よっしゃあっ! あとひと踏ん張りだぜ、相棒!」
愛機に向けて叫びつつ、滝川は嬉々として士魂号を街へと全力疾走させた。残り少ない燃料への考慮もなければ、遭遇戦を想定しての慎重さもないあたり、善行などが見れば頭を抱えるような行動ではある。
しかし、結果だけを論ずるのであれば、彼の行動は実に時宜に適したものとなった。
この全力疾走があればこそ、滝川はその街にいた者たちが死に絶える前に彼らと巡り会うことが出来たのだから。


少なくとも今現在、その街に誰かが存在している。滝川がそれを確信したのは、光学センサーが前方に立ち上る砂煙を捉えた時だ。
「よっしゃ、ドンピシャだぜ」
表情がほころぶのを禁じ得ず、滝川はそう呟く。この時点で、彼の頭の中には、ようやくメシとベッドにありつける、という、実に幸せな未来予想しかなかった。
滝川が駆る士魂号軽装甲仕様は、総じて高機動を誇る人型戦車の中でも抜群に足が速い。砂煙はグングンと近付き、後は廃墟と化した幾つかのビルを隔てるばかりとなる。ここに到って、滝川は遅れ馳せながら微かな違和感を感じた。
何故、こんなに盛大な砂煙が舞っているのか?
そして、無線機が雑音混じりの通信を拾った時、ようやく目の前に待ち受けるのが尋常の風景ではないことに気付く。
『…分隊、十時方向……退避させ…砲は間に合わ……』
切れ切れに耳に入ってくる言葉は、どう考えても訓練とは思い難い切迫した口調である。これが示すことはひとつ。
――交戦中?
今の今まで、士魂号の動作音に掻き消され気付かなかったが、耳を澄ませば微かな発砲音も聞こえてくる。
さすがに、身も心も引き締まる。先刻までの浮ついた考えなど、一気に吹き飛んでしまった。
「げぇ……退避しねぇと、マズイよな」
助太刀を、などとは考えもしない。これは、別段滝川が臆病だからではなく、極々常識的な軍事行動規範である。
軍は集団戦を行う組織であり、その行動指示は当然指揮下の部隊集団を念頭に構築されている。下手に手を出して集団の戦術指揮を乱すのは御法度だ。参戦するのであれば、まずは戦闘中の部隊指揮官に一報を入れ、その指揮下に入らねばならない。そうしなければ、最悪同士討ちの可能性もある。それが出来ない場合は、みだりに戦闘区域に立ち入るべきではないのだ。
しかし、その判断は状況に気付くが遅れたのと同様、あまりに遅過ぎた。
滝川が迂回を決断した時、彼の眼前に半ば倒壊したビルが迫っていたのである。しかも、全力疾走のため士魂号の勢いがつきすぎていた。とりあえず、この障害物を飛び越えねば、まともに停止することも出来そうにない。
逡巡しつつも地を蹴り、コンクリートの塊を飛び越える。
次の瞬間、滝川は心底仰天することになった。
「うわっ!」
着地しようとした、その先に異形の群れがいたのだから当然かもしれない。
「ちょ、ちょっとタンマ!」
思わず、口走る。
言ったところで戦車の外にいる相手に聞こえるはずはないし、仮に彼の言葉が届いたとしても、聞き入れてくれるような手合いではないのだが。
でっぷりと肥えた醜悪な体躯、怖気を誘う真っ赤な単眼。それが十ばかりも群れている背後に、一回り大きな投げ斧を手にした異形。
ゴブリン・リーダーに率いられた、ゴブリンの群れである。
冷静に考えれば、この程度の相手は士魂号の敵ではない。本田ならば、弾を使うのももったいない連中、と評するのだろう。
だが、滝川は慌てた。
心の準備もままならぬうちに、いきなり戦場に飛び出してしまったこともある。
二日ばかりの彷徨で、士魂号の性能が著しく低下しているという事情もある。
しかし、本質的にはもっと別の理由があった。
滝川は、遠距離戦を旨とし、決して敵の真っ只中に突っ込むというような戦い方はしない。それは壬生屋の役目であり、複座型突撃仕様の戦法なのだ。防御力に劣る軽装甲にふさわしい戦い方ではない。理屈はごもっとも、確かに事実、ではあるが、同時にそれは滝川が自身の小心を隠すための言い訳だとも捉えられていた。あながち間違った認識ではない。実際、滝川は必要以上に被弾を恐れていた。
元々、重度の閉所恐怖症である。特訓と称する痩せ我慢や、コックピット内部に極力明るいイメージのステッカーやら写真やらを張り付けるという涙ぐましい――担当整備の一人である新井木の言を借りるならガキっぽい――工夫によって、どうにか操縦に影響が出ない程度には恐怖を緩和することが出来た。しかし、彼のトラウマ自体が消えたわけではない。閉鎖空間に押し込められた状態では、どうしても思考がネガティブな方向に傾いてしまう。
もしも、このまま動けなくなったら?
もしも、ハッチが二度と開かなかったら?
そんなことはないと言い聞かせてみても、身体は容易にその激励を受け付けてくれない。しかし、パイロットである以上戦車には乗らねばならないし、せっかく手に入れた憧れのポジションを易々と手放してしまうことも出来ず。どうにも折り合いのつかない葛藤の狭間で、いつしか、知らず知らず、滝川は自らの抱く恐怖の幻影を克服するためにひとつの条件を与えていた。
被弾しては、駄目だ。
何もかも、悪いことは全て、被弾が引き鉄となって訪れる。
被弾すれば、この扉は開かない。
被弾すれば、二度とこの場所から出られない。
被弾すれば、何もかも終わりなのだ。
無意識にそう言い聞かせ、滝川は士魂号のコックピットに限って閉所恐怖症を克服した。逆説的に言えば、被弾さえしなければ何ら問題は無いのだ、と思い込むことによって。
だから、滝川は病的なまでに被弾を恐れる。彼が徹底したアウトレンジ戦法を採るのはそのためだ。速水などは漠然とそのことを気取っているらしく、多少の無理をしてでも滝川機の傍に敵を寄せ付けないよう心掛けている。善行も心得たもので、滝川機に無理な突出を指示することはなかった。単に、何をどう指示しても結局突出する壬生屋がいるため、滝川にまで突撃を命ずる必要が無かっただけかもしれないが。
このような事情があり、滝川がこれほど間近に幻獣と向き合うことはほとんどなかった。敵に接近するということは、被弾の可能性が急増するということであり、致命的な結果がもたらされる確率が加速度的に高くなるということなのだ。現実には必ずしもそうとは言えないのだが、滝川の無意識の中ではそのように勘定されていた。
「ヤバイ! ヤバイって!」
ほとんど本能的な恐怖の衝動に圧され、滝川は慌てて後退しようと背後を確認する。
そして、彼は更に呆然とすることとなった。
「な、なんだよ、これ……」
士魂号のセンサー・アイが捉えた映像は、唖然とこちらを眺める兵士たち。
それ自体は、別段理解に苦しむほど意外な光景ではない。戦闘中ならば、当然人類側の兵士もいるであろうし、命の遣り取りをしているところへ突然の闖入者があれば、訓練された兵士たちとはいえ驚くのも無理はなかろう。
滝川が呆然とした理由は、彼らの身なりだった。
全員、ウォードレスすら着用していない。ODグリーンや2型迷彩と呼ばれる広葉樹林迷彩の野戦服に鉄兜、半長靴。前時代的なボディ・アーマーさえも身に着けてはいなかった。手にする武器は、自衛軍の制式突撃銃。造りは平凡ながらも性能は高レベルで安定している名銃だが、使用される5.56mmアーマライト弾は中型幻獣を相手取るには貧弱と言わざるを得ない。中には、旧制式突撃銃を改装した簡易狙撃銃を持つ者もいる。これは、7.62mm強装弾を使用するため威力は高めだが狙撃銃としては致命的にバランスが悪く、しかもやはり中型幻獣にはさほど有効ではないため、各地の部隊で嫌われている銃だ。
装備から判断するに自衛軍の部隊なのだろうが、それにしても幻獣との戦おうといういでたちではない。いまどき治安部隊でも、もう少しマシな装備を持っているものだ。
そして彼らの背後には、十数台のトラックが並んでいた。僅かばかりとはいえ装甲が施された軍用車輛もあれば、明らかに民間から徴用したと思われるものもある。どのトラックも酷く傷付いており、ボロボロになった幌の隙間から荷台の様子を窺うことが出来た。
そこに積まれていたものは――
積荷は、人間だった。顔までは分からないが、統一性の欠片もない思い思いの服装。民間人だ。
「なんなんだよ、これはっ!」
怒鳴るように、滝川は再度疑問を口にした。
目の前には、迫り来る幻獣の群れ。
後方には、戦う力の無い民間人と、あまりに脆い盾と知りながら、それでも務めを全うせんと銃を取る戦士たち。
いったい、自分はどこに迷い出てしまったのか。滝川は、今や混乱の極みにあった。
ひとつだけ、確かなことがある。
この手の内に、戦う力があること。今この場所において、きっと誰よりも大きな力を手にしていること。
戦え。
お前は、民衆を守る最後の盾。
お前は、幻獣を狩る剣の切先。
本田教官から嫌というほど叩き込まれた戦訓が脳裏をかすめる。
その一方で、魂の奥底から涌き出る恐怖が足を竦ませる。
行くな。
行けば、待つものは死の顎門。
行けば、あるものは孤独な死。
二つの相反する情動に挟まれ、滝川は情けなくもガタガタと身を震わせ、しばしその場に硬直してしまった。それは、戦場において決してやってはいけない行動のひとつだ。
ガツン、という音が響き、士魂号が僅かに揺れた。
訝しむように様子を窺っていたゴブリン・リーダーが、ものは試しとばかりに投擲したトマホークが命中したのだ。
もちろん、軽装甲とはいえ士魂号にそのような攻撃が通じるはずもない。投斧は、虚しく硬化テクタイトの装甲に弾かれる。
「ひぃっ!」
にもかかわらず、滝川は素っ頓狂な叫びを上げ浮き足立った。
被弾した。
駄目だ。もう何もかも終わるんだ。
滝川の心が、恐怖の側にグラリと大きく傾いた。
逃げなくては。
逃げ延びることが出来れば、まだ何とかなるかもしれない。誰かが、助けてくれるかもしれない。そうだ、速水ならばきっと助けてくれるだろう。後は他の連中に任せ――
待て。
任せるべき相手が、どこにいる?
自分の後ろには、いったい何があったか。
ムズムズと、理性とは別の何かが怖気づく心を叱咤する。
ここで退くことは、百を下らぬであろう命を見捨てるということ。
我が身可愛さに、目の前に群がる化け物どもに供物を捧げるということ。
卑しくもサムライを駆る者として、それは許されることではない。
「あ……あぁ……」
意味を成さない呻きが漏れる。ジワリと浮いた涙に、視界が霞む。
反撃が無いことに励まされ、醜怪な化け物たちがにじり寄る。
「畜生……」
不器用に絞り出すような呟きを漏らし、滝川は鼻をすすりヘッドセット・ディスプレイに浮かぶ異形の集団を見据えた。震えつつ、自らの命を預ける機械仕掛けのサムライの、その左手に握る超硬度大太刀をゆっくりと構える。
ゴブリンたちは、微かに動揺したかのごとく一瞬歩みを止めた。しかし、ゴブリン・リーダーが奇声を上げると、それに押されたようにジワジワと前進する。
もっとも、滝川には連中の様子を気に留めているような精神的余裕はない。
「畜生、畜生! なんで、俺がッ!」
叫ぶや否や、滝川は轟然と士魂号を駆け出させた。
戦わなくては。
剣として、盾として。
サムライを駆る者として。
それが、恐れに涙を浮かべつつも、滝川が決めた意思だった。
ジャイアントアサルトを放つには距離が近過ぎる。
短く低い軌道のジャンプでゴブリンの群れの眼前に突っ込み、草でも刈るように超硬度大太刀を横薙ぎに一閃。本調子でないとはいっても、小型幻獣ごときに遅れをとる士魂号ではない。たちまち二・三体のゴブリンを剣風に巻き込み、この世から消し去った。
無謀にも左から飛び掛かろうとするゴブリンを返す刀でなで斬りにする。右から躍り掛かるゴブリンを、ジャイアントアサルトの銃把を握ったままの右手で一撃し、落ちたところを踏み潰す。
――まるで壬生屋の戦い方だな。
半ば恐慌に陥りつつも、心の片隅にそんな埒もない考えがよぎる。
目の前に躍り出たゴブリンを、サッカーのシュートでもするような調子で蹴り抜く。蹴られた怪物は、それこそボールのように宙を飛んで、指揮をとるゴブリン・リーダーの直近、崩れ落ちたビルの壁に激突し、グシャリと嫌な音をたてて潰れる。
そうだ。ゴブリン・リーダー。奴がいた。
戦場の風に高揚し幾らか恐怖を払拭しつつあった滝川は、遅まきながら敵の司令塔を潰すという戦術の重要性に気付く。
少し、距離がある。ならば、こちらの得意分野だ。
士魂号の持つジャイアントアサルトが、ゴブリン・リーダーに向けられる。多少離れているとはいえ、砲を用いるには近過ぎるぐらいの間合いだ。照門は使わず、照星だけを用いての近距離サイティング。
「行けッ!」
短く叫ぶと同時に、トリガーを引き絞る。
轟音一閃、狙いあまたず砲弾はゴブリン・リーダーの胴体に吸い込まれ、その醜悪な体躯を文字通り四散させた。
後方の兵士たちの間に歓声が上がる。士魂号にとっては当然の結果でも、彼らから見れば常識外の戦い、常識外の強さだ。
だが、その声はすぐに悲鳴じみたものに取って代わった。廃墟の影から姿を現した新たな敵は、彼らにとって最悪の相手のひとつだったから。
士魂号に劣らぬ、威風堂々たる巨体。下手な砲弾など弾き返してしまう強靭な表皮。背には無限に湧き出す凶悪な生体ミサイル、戦車をも叩き潰す槌のごとき両の腕。
ミノタウロス。兵士たちの士気を一瞬で奪い去る、地上の悪魔。
仰天したのは、滝川も同じだ。驚くなと言う方が無理がある。雑魚ばかりと思っていたところへ、突然白兵戦最強の相手が現れたのだから。
5121小隊としての行動の際には、瀬戸口かののみが敵の接近を知らせてくれるのが通例なので、突然目の前に敵が出現するなどということはほとんど有り得ない。まして、遠距離支援ばかりを担当してきた滝川である。ミノタウロスとの遭遇戦など、経験はおろか想定したことすらない。
先刻までの高揚も、一瞬で消し飛んでしまった。初めて間近に見る対戦車進化を遂げた中型幻獣に、完全に竦み上がってしまう。
壬生屋は、いつもこんな奴と切り結んでいたのか。速水たちは、こいつらが群れている直中に突撃を敢行していたのか。
毎度のように機体を大破させつつも壬生屋が決して軽んじられていない理由が、時に手痛い一撃を受け整備士たちを泣かせつつも速水や芝村が重用されている理由が、滝川にはわかったような気がした。こんな化け物と正面切って殺り合える。それだけで、彼らは尊敬に値するのではないか。少なくとも、自分には出来そうにもない。
今度こそ、恥も外聞も無く敵に背を向け逃げ出すべく、滝川はひとまずバックステップで距離を取ろうとした。さっさと攻撃圏内から逃れねば、ミノタウロスのミサイルが来る。壬生屋の重装甲ならばともかく、滝川が駆る軽装甲にとっては一撃で致命打になりかねない。ここは、退くべきだ。
誰に言う必要があるわけでもない言い訳を頭の中で組み立てつつ、滝川が愛機に地を蹴らせようとしたその時。
幾つかの、乾いた銃声が響いた。
それから、鬨の声が上がる。
位置は、滝川の斜め後方。
そこに居たのは――
まさかと思い振り向けば、廃墟を利用した急拵えの陣地を飛び出した自衛軍の狙撃隊が、悪銃として名高い改造狙撃銃で悲しいくらいに絶望的な銃撃を開始したところであった。くたびれた戦装束の自衛官たちが決死の突撃を敢行せんと、今まさに小銃片手に駆け出すところであった。
「馬鹿ッ! 来るんじゃねぇよッ!」
滝川は、思わず悲鳴を上げるように叫んでいた。何故、彼らはこの後に及んで、しかも陸戦幻獣最強のミノタウロスに向かって、突撃など行おうというのか。無茶だ。士魂号に乗っている自分ですら、尻尾を巻いて逃げ出そうとしているのに。
士魂号のサウンドセンサーが、微かな歌声を拾う。それが何を意味するのか、滝川はすぐに理解した。多少聞き慣れない言い回し――部隊アレンジなのか、あるいは地方アレンジなのか――がなされてはいたが、聞き間違おうはずもない。
突撃行軍歌。
退けない戦いなのだ。負けられない戦いなのだ。野辺に屍を晒すことになろうとも、戦友の躯を踏み越え進むことになろうとも。身を守る鎧が無くとも、撃つべき銃があるのなら、振るうべき刃があるのなら、戦う牙があるのなら、征かねばならない戦いなのだ。依然詳しい事情はわからないが、それだけは理解できた。
カッと、頬が熱くなる。
ガンパレード・マーチの効能か?
違う。昂ぶる心に身体が火照っているのではない。
恥じているのだ、己を。一度剣を取り、銃を捧げた身でありながら、我が身可愛さに守るべき者を忘れて退こうとした軟弱さを。
「う、うぅ……」
唸りつつ、滝川は踏み止まりった。恐れを具現化するように涌き出る涙に霞む目で、迫るミノタウロスを見据える。
恐怖は、消えない。幾らかの個体差や傾向の差異はあるにしても、人の心はそれほど強く出来ていないのだ。一度植え付けられた恐怖は、そう簡単に払拭できるものではない。滝川が閉所恐怖症を乗り越えるために多大な時間と労力を要したことからもわかるように。
征かねばならぬとわかっているのに、戦うしかないと決めたつもりなのに、どうしても先に進む一歩を踏み出すことが出来ない。それは、ともすれば死出の旅へと繋がる一歩だ。英雄ならぬただの人がその一歩を踏み出すためには、背を押す何かが要る。
頼りない銃声が響いた。
異形の仇敵が吼えた。
そして、突撃行軍歌が耳を打った。
「うわぁぁぁっ!」
雄叫びの代りに悲鳴を上げ、滝川はついに足を踏み出した。
「みんな、来るんじゃねぇっ! 戦いは、俺がやる! やるしかないんだっ!」
涙声で届くはずもない言葉を絞り出しながら、士魂号に地を蹴らせる。一歩、二歩、爪先が地に食い込み、針の先ほどの機体に戦艦並みのパワー、と称される大出力が、たちまちのうちに爆発的な加速をもたらす。距離にして僅か十メートル足らずの短い助走で充分なスピードを得た士魂号は、右足で力強く踏み切り宙に身を躍らせる。
それまで地上にあった士魂号に狙いを定めていたミノタウロスは、慌てたように半歩後退しつつ赤い瞳を空中に向けた。しかし、このような急激な動きに追随するには、かの二足歩行幻獣は鈍重に過ぎる。
滝川は、跳びながら残弾少ないジャイアントアサルトをミノタウロスに向け構えた。敬愛する先輩、来須から教わった移動射撃の技。立体的な要素を加えたのは、士魂号ならではの少々のアレンジだ。
轟音を響かせ、フルオートで全弾を叩き込む。もとより空中で身を捻るという不安定極まりない状態での砲撃だ、まともなサイティングは出来ない。ならば、下手な鉄砲もなんとやら、数を頼みにあわよくば痛撃を与えようという魂胆だ。これは、まだ滝川が士魂徽章を持っておらず特訓と称してあれこれ試行錯誤していた頃に、何だかんだと世話を焼いてくれた本田教官から教わった戦法のひとつ。
風を貫く砲弾の雨が、ミノタウロスに降り掛かる。どれだけ命中したのかはわからない。専門の観測手ならばともかく、パイロットの目ではジャイアントアサルトの着弾を正確に捉えること自体難しいのだから。
確かなことは、全弾はずれというわけではないらしいこと。
今の砲撃で、全ての弾薬を使い切ってしまったこと。
そして、士魂号の降着点にミノタウロスが未だ屹立していること。
何とかこの攻撃で仕留めることが出来ないかと期待していた滝川は、顔を歪めつつ、くぅ、と唸った。唸ったところで、今更跳躍軌道を変えることなど出来ない。
「こん畜生ォッ!」
罵声を浴びせつつ、滝川はミノタウロス目掛け踵を繰り出す。ガッ、と硬いものが噛み合う乾いた音を響かせ、首尾よく落下の勢いを利した強烈な蹴りを食らわせることに成功。さしものミノタウロスも、堪えきれずに数歩後ろによろめいた。
滝川機が接近し過ぎたためミノタウロスへの銃撃も出来ず、息を呑みつつ後方に控えていた兵士たちが、おお、と感嘆を漏らす。人型戦車によるジャンプからの変則的な踵落とし。なかなか間近に見られるものではない。
しかし、さすがに戦うためだけに生まれた狂おしき獣。ミノタウロスは幾らかかぶりを振りつつすぐに立ち直り、得意とする接近戦の間合いに飛び込んできた巨大な人形に、戦車装甲を苦もなく叩き潰す豪腕を迷わず繰り出した。
「う、嘘だろ。まだやれるのかよォッ!?」
恐怖に引き攣った声で泣き言を叫びながら、滝川は慌てて回避機動に入る。だが、その動きは一瞬遅い。
グワン、と響く音と共に堪え難い衝撃が走り、士魂号の巨大な身体が揺らいだ。
即座に鳴り響くレッドアラート。どうやら、腰から左脚にかけて、振り下ろされた破滅の鉄槌に捉えられたようだ。どれほどの被害を蒙ったのか、オペレーターがいない現状では把握することも出来ない。しかし、かなりの深手であることは漠然と理解できる。
「ひっ……!!」
ゾクリとする悪寒を伴い、恐怖が押し寄せて来る。滝川は、眼前まで迫った死の予感に戦慄した。
魂の奥底を凍らせるような、ミノタウロスの冷たく赤い瞳が輝く。麻痺したように、滝川は声を上げることもできない。
覚悟を決めるどころか、何も考えることが出来ない。そんなところに、不意に何かが聞こえた。また、あの歌なのだろうか。
――やめてくれ。もう、やめてくれ。たとえガンパレード・マーチを聴いたって、俺はもう立ち上がれない! 戦えない!
だがよく聞けば、士魂号のサウンドセンサー越しに滝川の耳を打つのは、あの勇壮にして下世話な突撃行軍歌ではなかった。
何のことはない、それは声援だった。
士官が、兵士たちが、その背後で守られる民間人が、口々に己の言葉で述べ立てる、それこそ品性にも欠ければ統一性の欠片もない、普通の言葉の洪水だった。
しかし、滝川を――正確には、どこの誰とも知れぬ戦場の闖入者を――気遣い、励まし、そして奮わせる、その意思だけは確かにひとつであり、一様に真摯であった。
「あ、アアァァァーーーーッ!!」
滝川は、言葉にもならない叫びを上げ、己を奮い起こす。
応えねば。
無理でも、無茶でも、彼らの思いに応えねば。
それが出来ずに、何のための士魂徽章か!
踏ん張れ! 目の前だ、斬り上げろ!
一際はっきりと響く誰かの言葉に従い、滝川は未だ無事な右足をミノタウロスに向け大きく踏み込んだ。懐に飛び込んだ勢いを左手に握る超硬度大太刀の刃に載せて、そのまま天空に抜けよとばかりに渾身の力で斬り上げる。
ズブリ、と、確かな手応え。
丁度非装甲の膝関節を抉るように叩き付けられた刃に抗し得ず、ミノタウロスの右足が半ばほどからザックリと斬り跳ばされる。
破滅の巨獣ミノタウロスは、地獄の底から響くような恐怖を誘う咆哮を上げた。
だが、今の滝川は、その叫びを耳にしても竦むことはない。この双肩にかけられた期待に、情けない自分に掛けられた声援に、ただただ応えようと必死で目の前の敵に立ち向かう。
「オオォォォッ!」
雄叫びと共に、地に倒れもがくミノタウロスに飛び掛かった。馬乗りに組み伏せ、逆手に持った大太刀を突き立てる。
大太刀の一突きごとに身の凍るような絶叫を上げ、ミノタウロスはついに動かなくなり、やがて霞のように掻き消えた。
憑かれたように刃を突き立てていた滝川も、ようやく巨獣を撃ち滅ぼしたのだと悟り、その手を止めた。


「サムライ……か」
大柄で肉厚な、厳しい目をした男が、ボソリとそう呟いた。
「ご存知なのですか、大尉?」
その男に輪を掛けて威風堂々たる体躯の下士官が、驚いたように問う。大尉と呼ばれた男は、頷いて彼の疑問に答えた。
「話だけは。火の国熊本が誇る異形の人型戦車、スピリット・オブ・サムライ。士官向けの機密情報だからな。軍曹が知らなくとも無理はない」
横合いから、中肉中背で眼鏡を掛けた、理知的でやや神経質そうな顔立ちの男が言う。
「では、あれが噂の士魂号M型?」
「それ以外に考えようがあるかね、中尉?」
ニヤリと唇の端を歪めつつ、大尉はそう問い返した。言葉に詰まる中尉を見て軽く笑い、大尉は続ける。
「その常識外の戦果に各地から配備要請がありながらも、一貫して他県流出を拒否してきた鬼子。熊本のあまりに頑なな姿勢に、莫大な戦果を含めて存在自体が虚偽ではないのかという噂もあったほどだ。まさか、こんなところで目にすることになろうとは、な」
「しかし、凄いものですな。あの動き、とても機械とは思えません。パイロットも、相当な手練なのではありませんか?」
軍曹の言葉に、中尉が首を捻った。
「それは、断言は出来きませんね。確かに、最後は軍曹の言葉通りに動いていましたが……噂に聞いていた士魂号M型の戦果から考えれば、むしろ素人に近いのかもしれません」
「詮索は後だ。とにかく、今は危地を救ってくれた英雄を迎えに行こう」
苦笑しつつ中尉をたしなめ、大尉は軍曹に命じた。
「軍曹、偵察車を出してくれ。俺と君で迎えに行こう」
「了解」
ビシリと完璧な敬礼を決めて、軍曹はすぐさま駆け出す。中尉は、その後姿を眺めつつ首を捻った。
「少し浮かれていますか。軍曹にしては、珍しい」
ふむ、と頷いて、大尉が応じる。
「まあ、勇敢な戦士を見て喜ぶのは部隊付き軍曹の性のようなものだ」
「そういうものですか」
「叩き上げでなければ、こういう感覚はわかりにくいかもしれんな。中尉は、展開した第二普通科小隊と特科小隊を呼び戻してくれ……連中が無事なら、だが」
大尉の命令に、敬礼を返しつつ中尉は答えた。
「了解。幻獣勢力撤退の報は届いています。きっと無事ですよ」
「そいつを確認するのも士官の勤めだ。行け」
「ハッ!」
踵を返し、中尉が駆け去る。有能な作戦参謀なのだが、どうにも理が勝ちすぎていて戦場に似合わないタイプの人間だ。兵の心を掴めず苦労するタイプだな、などと胸の内だけで評価する。
しばし一人となった大尉は、偵察車――と言っても観測機と高性能無線を載せただけのジープなのだが――が来るまでの間、幾らか今後の算段を考えた。あの士魂号M型を戦力に出来るなら、これから先の行動にも少しは希望が持てるというものだが、さて、どうなることか?
考えがまとまる前に偵察車が来たのでこれに飛び乗り、地に膝を突く士魂号の許へ。そして、大尉は仰天することになった。まさかあれだけの戦いを見せたパイロットが、まだ大人にもならぬ学兵だったとは俄かには信じられなかったのだ。
しかし、驚きはすぐに苦笑に変わった。
涙目で、鼻をすすりながら転げ落ちるようにコックピットを飛び出してきた少年が訴えかけてきた要請が、あまりに可笑しかったからだ。
いっそ微笑ましい、とさえ思いつつ、大尉は滝川という学兵の要請――すなわち、食事と、寝床と、そして替えの下着の贈与――を快諾した。
これから先のことは、彼が目覚めてから提案させてもらおう、と心に決めながら。