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翼持つ騎士と翼無き戦士 ――プロローグ.加藤の決断

雨足は、いつしか激しさを増していた。
「うっ……くぅ……」
唇を噛み締め、加藤は必死で嗚咽をこらえようとした。その努力は半ばほどしか効を奏していなかったが、それを放棄すれば崩れ落ちてしまうことがわかっていたから。身も心も、全てが。
まるで、馬鹿ではないか。ここで、へたり込んでしまっては。
こんなところで躓いてしまうために、今まで苦労を重ねてきたわけではない。
全ては、狩谷の憂いを祓うため。狩谷に、あの抜けるような笑顔を取り戻すため。
再び両の足で大地を踏み締め、屈託無く爽やかに微笑む狩谷。
つい数時間前まで描いていたそのビジョンは、しかし、今ではただ虚しい幻影に過ぎない。
『僕の場合は、治りようが無い』
狩谷が残した言葉が、いつまでも胸に突き刺さってジクジクと痛み続ける。
本当に、どうしようもない馬鹿だ。
寸暇を惜しんで整備に訓練に余念の無い同僚を尻目にせっせとバイトに明け暮れ、非合法のプログラムを手に入れては売りさばき、さすがに物資の横流しまではやらなかったが、密告屋まがいのことまでした。結果滝川が不可解な病死を遂げた時には、目の前が暗くなったものだ。その時にはもう、わかっていたはずだ。こんなことをしても、狩谷は喜ばない。他人の命で自分の足をあがなって平気でいられるような人物ではないことは、誰よりも加藤が知っているのだから。
それでも、構わない。奇麗事で済まないのであれば、穢れは全て引き受けるつもりでいた。それで良いと思っていた。狩谷に笑顔が戻るのであれば。
それが、そうまでして頑張ってきた結果が、これだ。
頑張った?
いや、そうではないのかもしれない。
思いがけず狩谷と再会し、浮かれて勝手に突っ走っていただけ。狩谷にしてみれば、本当に有難迷惑なだけだったのかもしれない。それが証拠に、今ここに狩谷はいないではないか。
そう思うと、余計に泣けてくる。
どのくらい、そうやって佇んでいたのだろう。
不意に、身体を叩く冷たい雨粒が途切れる。代わりに、バサバサと雫を弾く耳障りな音。
ハッとして振り向いた加藤の目に、三十代くらいと思われる男の顔が映った。
「な」
何者や、アンタ。そう言いかけた加藤に、男は嗜めるような口調でゆっくりと言った。
「この雨の中で突っ立っているのは感心しないな。身体に障る」
思わず、ほっといてんか、と言いたくなるのを堪え、加藤は力無く愛想笑いを浮かべた。
「はぁ、エライすんまへん……ご忠告、おおきに」
ひとつため息をついて、男は煙草をくわえ火を付ける。加藤から離れる気配は、無い。
逃げ出した方がいいだろうか――加藤がそう考え到るのに少し遅れて、男はボソリと呟いた。
「災難だったな」
ピクリ、と加藤の頬が揺れる。
本当に、こんなところで雨に振られたのは災難だった。しかし、それに先立つ出来事があまりにも――災難と呼ぶには、あまりにも大き過ぎて、今更雨に打たれようが大した感情も浮かばない。
「悪い医者に騙されていたのだろう?」
その言葉を耳にして、加藤は反射的にキッと男を睨み付ける。何故、それを知っているのか。あの医者の仲間なのだろうか。そう思いつつ、加藤は今更ながら男の風体を確認する。
中肉中背、特にこれといった特徴の無い顔立ち。上着を羽織っているのは、雨のおかげで気温が急に下がったからか。その下に覗く服装は――自衛軍の制服だった。
「あ、アンタは……」
「ん。少なくとも怪しい者ではない。自己紹介させてもらえるかね? 自衛軍技術部の沢村大尉だ。君たちの階級になぞらえれば、千翼長ということになるのかな? もっとも、私は研究所付きのテクノだから戦場に出たことは無いが」
それが本当なら、身元は確かなわけだ。
「はぁ。あ、ウチは……」
「加藤祭。階級は十翼長。勇名馳せたる5121小隊の優秀な事務官、だったかな?」
自己紹介を返そうとする加藤を制して、沢村がピタリと言い当てた。再び警戒心を表す加藤に軽く笑いかけ、沢村はタネを明かす。
「いや、何、別に君をマークしていたわけでもなければ、まして魔法を使えるわけでもないよ。たまたま病院で君たちの様子を目にしてしまってね。少しばかり、あの下司医者を締め上げて来たってわけさ」
タネを明かされたからといって、加藤の警戒が消えるわけでもない。むしろ、嫌な場面を見られていたという意識から、これ以上の接触を拒絶したいという意思が大きくなる。
「それで、何か……」
心情を映してか低くなる加藤の声。沢村と名乗った男は、その様子を意に介した風でもなく、ただ加藤の髪に紫煙が掛からないように横を向き一息吐き出した。
「まあ、今言った通り事情を聞いてね。さぞ気落ちしているだろうと思ってな」
加藤に向き直り、どうでもいいことを話すような気軽な口調で続ける。
「それで、ひとつ教えておきたいことがある。あの医者は邪な考えから詰まらん嘘を君に吹き込んだわけだが……嘘から出た真と言おうか、実のところ狩谷夏樹十翼長の足は直すことができる。それを伝えておきたくてね」
沢村の口振りは軽かったが、それは加藤にとって相当の衝撃を伴う情報だった。ほとんど反射的に掴みかかり、肩を揺する。
「ほ、ホンマでっか! 今度の今度こそ、嘘やなしに!?」
その勢いを堪えきれず、沢村は傘を取り落とす。反対側の手にあった煙草が、見る間に台無しになる。少々困ったような表情で煙草の残骸を濡れた地面に落とし、彼はきっぱりと首を縦に振った。
「もちろん。私が保証する」
爛々とした輝きを取り戻しつつあった加藤の瞳が、ゆっくりとその輝きを失っていく。
「でも、なっちゃんの場合は無理やって……」
狩谷は、無理だと言ったのだ。また騙されようとしているのではないだろうか?
その心配を見透かしたかのように、沢村は少しだけ噛み砕いて説明した。
「それは、脊髄ができなければ、の話だろう? ならば、簡単なことだ。脊髄の部分クローンを製造し、移植すればいい……と、口で言うほど簡単な作業ではないがね。理屈のほどは、単純明解だ」
「そんなことが」
懐疑的な表情で問い質そうとする加藤を制し、沢村は力強く頷く。
「出来る」
その言葉と態度が、とりあえずのところ加藤の信頼を勝ち得たことを見て取り、注釈を入れる。
「言葉はよく聞くべきだな。私は”直る”と言ったのであって”治る”とは言っていない。これは、医学の分野ではないんだよ。むしろ、生体クローン工学、病院ではなく、研究所や工場で取り扱われるべき技術の問題だ」
そういうものなのだろうか。だとすれば、まだ目が無いわけではない。しかし、研究所だとか工場だとかいう話になると、今まで考えていた治療とは前提条件が異なるかもしれない。本当に、それは可能なのか――
「え、えっと、それって、どのくらいかかるんです? お金とか、時間とか」
相手が答えてくれる、あるいは答えを知っているという保証は無かったが、とりあえず尋ねてみる。まあ、訊くだけなら無料だ。
沢村は、少々難しそうな面持ちで言葉を手繰った。
「ものにもよるな」
指折り数えつつ、少し考える。技術者として費用を算定しているのだろう。
「研究培養の場合、億単位の金がかかることも珍しくは無い。何年もかけて、入念な調査と準備を行った上でね」
「お、億……!」
さすがに、加藤は絶句した。そこまでの費用となると、生涯年収でも追い着くかどうか。数年、という時間も、戦時下の状況にあっては絶望的な数字だ。
「そういう意味では、やはりあの医者の言葉は出鱈目だったわけだ。何百万かの投資でどうにかなるほど、人の身体は安くない」
沢村は、チラリと明らかに気落ちしている様子の加藤を窺い、ややあって苦笑しながら付け足した。
「まあ、脅すのはここまでにしておこうか。狩谷君の場合は、それほど難しい注文があるわけでもない。単純に第六世代の背骨を作って取り付けるだけの作業だ。資材費、設備運用費、諸々込みで五千万といったところか。それでも、九州なら家が一軒建つが」
「五千万……」
それでも、加藤の稼ぎからすると気が遠くなるような金額だ。だが、少しは現実的な数字だとも思える。それだけ稼ぐのにどれだけの時間が掛かるか、それまで狩谷も加藤も生きていられるのか、色々と問題はあるが。
そんなことを考えめまぐるしく表情を変えている加藤に、沢村は更に新たな情報を与える。
「まあ、問題は金額よりも設備と時間の方だな。正直言って、金の方はコネさえあればどうとでもなる。こういう真似が出来る場所で流通するのは、所詮、国や自治体、あるいは軍といった組織の金だ。研究者の懐が痛むわけでなし、理由をこじつけて公金で賄えばいい。実験だと言い張って、な」
そう、実のところ金銭的な問題はそれほどの障害ではない。他はともかく、軍の研究機関など営利団体ではないのだから金勘定などザルもいいところだ。問題は――
「問題は、そういうことのために設備を空けている時間がないってところだ。知っての通り幻獣との戦いが日に日に激しさを増して、クローン工場はフル稼動で新たな命を生み出しているし、研究所のクローン研究だって、君の安全のためにも詳細は言えないが、戦争と直結していると思っていい。そういう状況下で、何ら特別な存在ではない半身不随の人間ひとりのために設備を空けているような余力は無いと言ってもいい」
問題は、これなのだ。営利機関ではないが、軍関係の研究所は趣味や興味に従って運営されるわけではない。最終目的は、戦争に勝つこと。そのためだけに、昼も夜も無く研究が続けられている。決して、遊んでいるわけではないし、不正をもって利を得ようとする人間が気軽に所属できるような組織でもない。情熱と探求心と、そして他の軍人たちと同じく忠誠心が必須となる職場だ。
「それじゃ、結局はアカンちゅうことですか?」
落胆を隠せない加藤の言葉は、か細い悲鳴のような響きを湛えていた。沢村は、軽く肩をすくめて応じる。
「原則的には」
そう答えてから、気休めと知りつつ付け加える。
「ただ、君の願いを叶えることが技術的に不可能というわけじゃない。それだけは知っておいてもらいたくてね。技術屋のネットワークと懇意にしておけば、いつかはチャンスもあるかもしれない。それこそ雲を掴むような話だが、何も無いよりはマシだろう?」
確かに、その通りかもしれない。しかし……
しばらく考えてから、加藤は慎重に言葉を選んで言った。
「それは、チャンスが巡ってこん可能性もある、ちゅうことでっか?」
沢村は、肩をすくめて答える。
「否定はしない。私とて、自分の職務に自信と責任を持っている。大抵の技術屋は、そうだ。先ほど言ったようなトチ狂った願いを叶えてくれるのは、よほどのお人好しか、あるいは見返りとして何かしら別の目的がある場合だけだろうな」
ほんの数秒の沈黙。
なるほど、話が出来すぎていると思った。
「……アンタは、どっちなんや?」
低く抑えた加藤の声に、深いため息をつきつつかぶりを振って沢村は答えた。
「……察しがいい、と言っておこうか。もう少しおめでたい性格なら笑って別れることも出来たのにな。私は、どちらかと言えば後者だ」
「何が目的?」
警戒心を最大限に引き起こして身構える加藤。だが、恐らく彼女の想像よりも現実は厳しい。
「あの下司な医者と一緒にしてもらっては困るな。それほど安くは無い……君の命、だ」
能面のように表情を消して、沢村はそう告げた。先刻までの笑ったり困ったりといった表情よりも、それは彼の雰囲気に似合いであるように思える。
「断っておくが、楽に死なせることは出来ない。死んで楽になることも出来ない。私に言えるのは、ここまでだ。これだけでも、十分危険な発言なのだがな」
恫喝を含ませたつもりなのだが、かえって加藤は腹をくくったかのように落ち着いた声で問う。
「なっちゃんの足が直る保証は?」
「100パーセント保証する」
それに関しては、絶対の自信をもって頷くことが出来る。
「君に望むのならば、彼が両の足で大地に立つのを見届けてからでも構わない。ただし、君の命が無くなる可能性も100パーセントだ」
沢村に許された、それが最大限の譲歩だ。それ以上は、彼の力の及ぶところではない。そう思いつつも、沢村は更に言葉を付け足した。個人として、ひとつ忠告するぐらいの自由は許されていいだろう。
「恐らく狩谷夏樹は喜びはしないだろう。それでもやるかね?」
誰も喜びはしない。かの一族以外には。
呪いと祝福を。この身と、かの青の一族に。
「……やります」
カラカラに乾いた喉から、加藤は言葉を絞り出した。
どのみち、戦場に赴くこの身。いつまであるかわからない命。本当に狩谷の足が直るのであれば、差し出しても構わないのではないか?
万難を排して狩谷の足を直すと誓った気持ちに偽りが無いのなら、出来るはずだ。今まで、無心に尽くしているつもりで、その実見返りを求めてはいなかったか?
狩谷に振り向いてもらうためにやっているわけではない。ただ、狩谷に笑顔を取り戻したい、それだけのはず。
頼まれたわけじゃない。誉められるわけじゃない。自己満足だ。
今のご時世、そのために命を捨てられるなんて、むしろ贅沢ではないか?
「ウチは馬鹿やから、馬鹿なりのことしかできまへん」
加藤の決断に、沢村は嘆息を漏らさずにはいられなかった。