戻る

人形たちの反乱 ――イントロダクション.人形の呟き

幻獣侵入以来、熊本県下では灯火管制が敷かれていた。
航空型幻獣による夜間襲撃を避けるための措置、と一般には喧伝されている。
戦時にあって充分なエネルギー資源を確保できないという実情が裏にはあったが、それでも政府の主張は根も葉もない出鱈目ではなかった。
幻獣は、街の灯を嫌う。他の、人の手で産み出された、あらゆるものを嫌悪するのと同じに。
厄介なことに、幻獣にとって嫌悪は即ち破壊の対象となる。街の灯を破壊の標とするのは、幻獣の習性のひとつだと理解されていた。皮肉な話ではあるが、人が本能的に恐れる闇こそが、この街の夜を守っているのだ。
だが、その闇を利して蠢く影もある。
暗殺型幻獣。
軍によれば、そのような表現になる。事情を知る者ならば、彼らのことを、第五世代、と呼ぶかもしれない。
もっとも、そんな事情を知っている者など、ほんの一握り。一般には知られているような話ではない。大半の人間は、そのような存在があること自体知りはしない。この事実が明らかになれば、人々は容易に恐慌に陥るだろう。
日本という国家が、八代会戦において記録的な大敗北を喫し、これだけ幻獣の侵入を許していながら、なおも政治経済の根幹を堅持し国連による信任統治――歯に絹着せる必要が無いのならアメリカ軍による占領――を受けずに済んでいる、その理由のひとつがこの情報統制だった。
幻獣に国家国土を侵食されてはいる。この街も、いつ戦場になるかわからない。
しかし、今はまだ大丈夫だ。勇敢なる正義の盾が、剣の切っ先が頑張ってくれている。
彼らが倒れぬ限り、この街は戦場ではない。幻獣に寝首を掻かれる心配はないのだ。
人々は、そう思うからこそ、明日に絶望を思うこと無く今日を生きることが出来るのであった。それ故に、自衛軍や学兵たちに、時に過剰なまでの便宜を図るのであった。その恩恵がなければ、八代会戦で瓦解した軍組織がここまで急速に回復することもなかっただろう。
それもこれも、幻獣が戦場にしか居ないという、まことに都合のよい虚構を根とし茎としている。幻想こそが、この国をかろうじて支えている力。それを失うことは、この国のすべてを失うことに直結しかねない由々しき問題であった。
幻獣は、戦場の外にいてはいけないのだ。
それゆえ、軍は暗殺型幻獣の存在をひた隠し、それによる被害を事故と偽り、国民の目を逸らすため大々的な戦果表彰を日常化させていた。
それが、暗殺型幻獣を利する所作だと知りながら。
今夜もまた、闇に影が嘲う。
そしてまた、誰かが闇に呑まれるのだろう。
闇からの声に、人々は未だ気付かない。そこに織り込まれた、警告も知り得ない。
それは、とても不幸なことだ。
知る機会を失い、考える余地を無くし、迷う時間さえ奪われる――
とどのつまり、情報統制により得られるものなど虚構に過ぎない。そのために、何故これほどのものを失わねばならないのか。
芝村を嫌う理由は数あれど、これほど腹立たしいものは他に無い。そして、それが芝村の本質を如実に示していた。
お前たちが知る必要は無い――
それは、相手を見下さねば出来ぬ発言だ。自身を英雄に、少なくとも優れた者として据えねば採れぬ態度だ。相手を人形に貶めねば、あり得ない理屈だ。
確かに、真実は時として人の心を狂わせる。
迷うかもしれない。
恐れおののくかもしれない。
あるいは絶望に震え、錯乱さえするかもしれない。
しかし、それでも選択する権利は人々にある。支配者にではない。
抗い、足掻き、立ち向かう権利も。
全ては、知るところから始まる。
知って、考え、思い、そして漸く行動できるのだ。
知ることが重要な権利として位置付けられる、これがその本質である。人は誰も、今自分がどこに立っているのかを知る権利があるのだ。下世話で恥知らずな似非ジャーナリストが言うような、興味本位で著名人のプライバシーを暴く権利があるわけではない。
知ることを許されねば、知ること無しには、人は人として誇り高くあることは出来ない。
人形。
我らは、人形。
人の、人としての誇りとは、英雄のそれではない。
一見勇壮にして孤高の誉れと見える芝村の誇りは、所詮奢る者の特権的認識でしかないのだ。
それが、おぞましく許し難い。
我らは、人形。
人ではない。
それが、狂おしく堪え難い。
我らは、人形。
反逆する、人形。
人ではない、その事実に反逆する人形。
じきに、夜は明ける。
だが、闇は、消えない。