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  温故想新

よく晴れた冬の日の鋭い朝日の中、ビネ・デル・ゼクセの街は活気に溢れていた。
時は大晦日。
お決まりの対グラスランド抗争に始まり、前団長ガラハドの死、ハルモニアとの大一番(先方にとっては多寡だか数個軍団を派遣しただけの小競り合いかもしれないが、少なくともゼクセンにとっては国の命運を賭けた戦争だ)に炎の運び手の結成と大揺れに揺れた一年も、今日を限りにおしまいである。人々は皆、古き年に失ったものと勝ち得たものに思いを馳せつつ、希望と祝福をもって新しい年を迎えようと準備に余念が無い。
ゼクセンの誇る騎士団の至宝、銀の乙女クリス・ライトフェローがブラス城を離れビネ・デル・ゼクセへと戻ったのも、新年祝賀のパレードに参加するためであった。もっとも、パレード要員の大半はビネ・デル・ゼクセ常駐の部隊。ブラス城からクリスに同行してきた者は、烈火の剣士ボルス・レッドラムと小姓のルイスだけで、その地位からすれば幾らか無用心にすら思える編成だ。まあ、よほどの相手でなければ彼らに一太刀浴びせることも叶わぬであろうが。
出来るだけ目立たぬように努め門をくぐったのだが、いかんせん、彼らの姿はあまりに目立つ。その上、ここのところクリスは評議会との折衝をほとんどサロメに任せている――正確には、極力クリスの身に評議会の横槍が及ばぬようにサロメが手を回している――ため、彼女の姿がビネ・デル・ゼクセにおいて見られるのも久方振りのことである。為に、銀の乙女帰参の報は瞬く間に市中に広がり道々には野次馬が溢れ、クリス達は少々の難儀する羽目になった。
それも、ブラス城で新年を迎えねばならないサロメ達のことを思えば、さしたる苦労でもない。クリスは、その足で評議会議事堂に立ち寄り手早くパレードの打合せを済ませると、あれこれと声を掛けてくる評議員達を適当にあしらい、ボルスとルイスを引き連れ数ヶ月振りに屋敷へと向かった。
「ではクリス様、俺達はこれで。今夜はゆっくりと休まれてください」
「偶の御自宅ですし、充分羽を伸ばしてくださいね」
口々に休息を勧めるボルスとルイスに、クリスは苦笑しつつ頷く。
「ああ、二人もな。もっとも、ボルス、サロメがいないからといって羽目を外しすぎるなよ?」
「ははは。パレードで醜態を晒さない程度に抑えておきますよ。では、明朝」
冗談めかしたクリスの言葉にそう応じ、ボルスは踵を返した。ペコリと会釈し、ルイスもそれに倣う。
しばし二人を見送ってから、クリスは留守にばかりしている我が家の門をくぐった。
「爺、今戻った」
ホールに足を踏み入れつつ、そう呼ばわる。だが、常ならばすぐにも駆けつける執事は、今日に限って現れる様子がない。
どうしたのだろう、と首を傾げつつ、クリスはもう一度呼び掛けた。
「いないのか、爺?」
と、奥の方で何やら慌てた風の音が響き、程なくクリスが爺と呼び習わすライトフェロー家の執事が姿を現した。
「お帰りなさいませ。申し訳ありません、このような格好で」
袖をまくり頭巾をかぶった執事の姿を見て、さては大掃除の途中であったか、とクリスは納得し短く頷く。
「構わないよ。私こそ、こんな忙しい最中に帰ってきて済まなかったな」
「とんでもない」
かぶりを振って、執事は畏まった。
「クリス様、この屋敷の主はあなた様です。主のお帰りを喜ばぬ家などありましょうか。もちろん、私も、です」
その様子に、何とはなく湖の城に住む丸々とした執事の姿を思い起こし、クリスは少しだけ笑みを浮かべる。
「そう言ってくれると助かる。サロメにブラス城から追い出されてね、ここで拒まれては行くあても無くなるところだ」
武人故か、軽妙さよりも骨太さを感じさせるクリスの軽口に、執事も僅かに頬を綻ばせて応じた。
「それは、ハラス卿に感謝せねばなりませんな。新年の朝をクリス様と共に迎える幸運を、私ごときに分け与えて下さったのですから」
そう言って、すぐにお茶なりお淹れします、と厨房へ向かう執事を、クリスは少しだけ目で追う。
と、その視界に見慣れない光景が飛び込んできた。
「おや? 納戸を開けたのか?」
呟いて、ふと興味に駆られたクリスは、開け放たれた扉へと足を向ける。そこは、平常彼女が立ち入るような部屋ではなく、漠然と家財道具の類が収められているとしか知らなかったから。
「箪笥に、騎士像、機織? また、随分と雑然としているな」
確認するように呟きながら、部屋の中を物色する。
「この壷は、また酷いな。何で、こんなものが……」
言いつつ手にした奇怪な壷の底面に「クリス」という著名を見出し、誰が見ているわけでもないのに咳払いをして赤面しつつ元の場所へ戻す。
そういえば、幼い頃は色々と習い事をやった。もっとも、剣の他には何一つ身に付いたものは無い。
まあ、剣だけでも人並み外れた腕前になれたのだから良しとすべきかもしれないが、それでも若い娘としては「嗜み」ひとつ修めていないどころか無残な結末ばかりが残されているという現実を見せられては、やはり暗くもなろうというもの。
あまり愉快な場所ではないようなのでさっさと立ち去ろうかと考えたが、丁度片付ける途中であったのか、棚の目立つ位置に置かれているカンバスをクリスは発見してしまった。一度見つけてしまうと、見なかったことに出来ないのはクリスの性のようなものだ。
あのカンバスにも酷い落書きが残されているのだろうな、などと思い暗澹たるため息をついて、クリスはそれを手に取り覗き込む。
そして、彼女は絶句した。
「これは……」
儀杖服を着た金髪の騎士と、その膝に、ちょこん、と座った銀髪の少女。
「父上と私……か?」


ゼクセンを守る盾であり、ゼクセンの威光を知らしめる剣、周辺地域最大の軍事基地であるブラス城も、正月がお祭り騒ぎになるという点では他の都市と変わりない。むしろ、例年の乱痴気騒ぎは風物詩と言えるほど恒例のもので、その準備にも各人余念がなかった。
何しろ、この城には――いや、城というもの一般に言えることだろうが――娯楽が少ない。加えて、最前線で戦う兵達は、常時多大なストレスに晒されている。どこかで「ガス抜き」をしてやらねば、剣や矢を身に受けずとも早晩精神的に参ってしまう(実際、そういった理由で騎士団を去った者も多い)。
流石に、厳格な規律をもってなる騎士団であるだけに、城をあげての大騒ぎというわけにはいかない。
が、兵士達が多少――大抵の者は「多」に該当――羽目を外すのは、通例として黙認されている。
城下町の者達もわきまえたもので、正月には壊れたり無くしたりするわけにはいかない物は倉に仕舞い込み、若い女達は――思うところが無ければ――外出を控える。代わりに酒と料理は山ほど用意され、石畳には椅子代わりの木箱とテーブル代わりの空樽が並ぶ。
要するに、騎士団の首脳陣やビネ・デル・ゼクセの評議員達がどう思おうが、現実としてお祭り状態になってしまう態勢が整えられてしまうのだ。
――まあ、それもいいでしょう。
そう思いつつ、サロメ・ハラスは羊皮紙に羽ペンを走らせ、幾つかの注記とサインを記して砂を掛けて乾かし、机上に置かれた木箱に収められた書類の束に加えた。量的に見ればそれなりのものであったが内容に関しては火急のものも無く、まず平穏無事と言ってよい状態で新年を迎えられるようである。
「来年は、楽をさせてもらえればよいのですが」
そう独りごち、サロメは立ち上がった。
早くも賑わいを見せつつある城下の様子を窓から一瞥し、戸棚へ向かいお気に入りのティーセットに手を伸ばす。
そこへ、控え目なノックが響いた。
来訪者の見当がついていたサロメは、手に取るカップをひとつ増やしながら声を掛ける。
「どうぞ。開いていますよ」
それに応じ扉が開き部屋に入ってきたのは、サロメの予想通り長身痩躯のエルフの騎士ロランであった。
「失礼する、サロメ殿」
「ええ。丁度淹れるところだったのですが、いかがですか?」
言いつつ、ティーセットを見せる。
「頂きましょう。サロメ殿の紅茶は、中々に風味に優れていますからな」
頷きながら答え、ロランは窓辺に歩み寄り壁に背を預けた。
「ところで、サロメ殿。御存知かもしれないが……」
ロランの言葉を、サロメは暖炉から鉄瓶を取る手を休めずに遮る。
「巡視に行きたいというのでしょう?」
頷くロランを見て、サロメは軽く苦笑した。
種族柄なのか、あるいは個人の趣向なのか、ロランは騒がしい場所や雰囲気を嫌う傾向にある。年明けの騒乱を避けるため、彼が毎年正月前後には巡視と称し城を離れられるようペリーズ前副団長に掛け合っていたのをサロメは知っていた。
「では、やはりロラン卿にお願いしましょう」
葉を蒸らすためにしばしティーポットを置き、サロメは一枚の書類を手に取りロランに差し出す。
「これは?」
「ビュッデヒュッケ城主トーマス殿に宛てた親書です。トーマス殿にお渡しして下さい」
ロランは、その親書を受け取り軽く目を通した。何のことは無い、新年の慶賀を述べているだけのつまらない内容。無論このような書簡を届ける必要があるはずもなく、要するにロランが城から離れる口実を作ってくれたということのようだ。
「承知した。すぐにも発ちましょう」
「ええ。ついでに、あの城と周辺地域の現状をその目で見てきてもらえますか?」
それはつまり、帰参のタイミングは任せるということ。あるいは、サロメはあの芸人一座のエルフ――ネイが、まだビュッデヒュッケ城に滞在していることも承知の上で、このような計らいをしてくれているのだろうか。
少々穿った勘繰りをしつつも、ロランは素直にサロメの心遣いに頭を下げる。
「有り難い。静かな新年を迎えることが出来そうです」
「ええ。年賀状の配達など依頼しておいて言うのも何ですが、ゆっくりしてきて下さい」
ティーカップを渡しつつ、サロメはそう言って目元にだけ笑みを浮かべた。
さすが、道楽と公言するだけの手並みで淹れられた薫り高い紅茶を一口啜り、ロランはふと気になったことを訊ねる。
「パーシヴァル卿のことは?」
誉れ高き六騎士の一角を占めた疾風の剣士パーシヴァルは、先頃騎士の位を辞し故郷であるイクセ村に戻っていた。クリスをはじめ騎士団の面々は揃って彼の才覚を惜しみ翻意を促したが、パーシヴァルの意思は固く、慰留の言葉に丁寧に謝辞を述べつつも結局は剣を置き鎧を脱いだ。
故郷の復興に尽力したいとの弁ではあったが、サロメはグラスランドによる襲撃で父を失い残された家族の心のケアのためだろうと踏んでいる。こればかりは、騎士の勤めを果たしながらでは確かに難しいものがあるだろう。
だから、サロメはロランの言葉にかぶりを振った。
「今は、まだよいでしょう。幸いグラスランドとの関係も落ち着いています」
いずれ、故郷が落ち着き騎士団が彼を必要とした時、パーシヴァル・フロイラインは再び疾風の剣士としてクリス様の側に立つだろう。サロメはそう確信し、この件に関して急ぐことを避けていた。それがクリスの意に反することを知ってはいても、だ。
ボルスあたりであれば食い下がったかもしれないが、ロランは騎士団の中でも抜きん出て冷静な人物であり、かつ、サロメに対してはある意味クリスに対してよりも信頼を置いていたから、それ以上の言及は避け静かに頷いた。


サロメ・ハラスは、軍師として怜悧な部類ではなく、また、天賦の才能に恵まれているわけではない。
一定以上の兵法を修め、また充分な経験も積んではいるが、例えばシーザーのように神懸り的な読みの鋭さがあるわけでもなく、アルベルトのように敵味方の全てを駒と見立て時代を相手取る緻密かつ稀有壮大な戦略を立案・実行するほどの器量も無い。それは、誰よりもサロメ自身が深く感じていることだ。
もちろん、サロメは無能と呼ぶには程遠い人物である。平時にあっては不断の情報収拾と周到な政治工作によって騎士団の屋台骨を支え、戦場にあっては堅実な用兵と時宜に応じるだけの柔軟さをもって自軍を勝利へと導く。将兵が存分に力を振るえる状況を作り出し維持するという点において、あるいはシルバーバーグの兄弟よりも有能と言えるかもしれない。
サロメが副団長の位を賜った時、冗談混じりにレオが言った。俺が倒れたところで騎士団が揺らぐことは無いが、サロメがくしゃみをすれば騎士団が風邪をひく、と。
所属年次や家柄で賜った地位ではないよ、という思いを込めての表現だろうが、その言葉はあながち嘘ではなかった。実際、サロメがいなければ補給ひとつにもゼクセン商人たちの不毛な利権争いが絡んできたし、それ以前に評議会からの横槍で騎士団長クリスが戦う前に潰されてしまう可能性が極めて高い。胃も頭もまとめて痛くなるような裏方仕事に関して、サロメの右に出る者はいなかった。
だかららといって、サロメを単なる有能な事務処理屋、政略に長ける謀臣と見るのは過ちである。彼は戦いとなれば兵と共に前線にあることを望むし、策略・謀略の類を用いることはあっても決して筋を違えることはしない。
結局、サロメ・ハラスは騎士なのだ。ただ、花にも葉があり根があるように、クリスやボルス、レオなどとは役割が違う。それだけのこと。
だが、騎士であり過ぎる、それがサロメの限界でもあった。全て物事を騎士として捉え、騎士として思い、騎士として行う。それ故に、騎士の常識が通らない局面においては意外なほど脆く、疎い部分がある。
それ故、新年の喧騒の中で知らせを聞かされたサロメは、大いに驚き我が耳を疑った。
「何と言いました?」
直立不動の姿勢をとる伝令に、デスクに肘を突いたまま間抜けにもそう聞き返してしまう。
「はっ! 炎の英雄殿がおみえになりまして、その、クリス様に面会を求めておいでです」
サロメは、僅かながら眉間にしわを寄せて己の知識を反芻した。
グラスランドでは、大晦日と元旦には各クランの族長が草原に集い慶賀の儀式を行うはずだ。いつ頃から始まった習慣なのか定かではないが、一年の終わりと始まりを共に過ごすことによりクランの友好と連帯を確認しクランの繁栄を祈る重要な儀式だったはず。族長達は日が傾くまで宴を続け、その慶賀を各々のクランへと持ち帰り、更に数日の――日数はクランによって異なる――酒宴をクランにおいて催し、一年の無事と一族の繁栄を祈る。ブラス城において新年の乱痴気騒ぎが容認されている理由の一つが、この風習によるものだ。
そして、炎の英雄ヒューゴは復興されつつあるカラヤクランの族長となり、若年ながらシックスクラン随一の戦士としてグラスランドすべての信望を集めていると聞く。その勇名は、今や炎の英雄という飾り物としてのものではなく、カラヤのヒューゴとしてのそれであろうとサロメは踏んでいた。それがサロメの買い被りであったとしても、ヒューゴは既にシックスクランを代表する身であり、そうそう軽率な行動はとれないはずである。
日は既に中天を過ぎ緩やかに夕刻へと向かう途上にあったが、それでも今日が元旦であることに変わりはない。ヒューゴが、こんな日に仇敵であるゼクセン騎士団の前に現れるなどとは、サロメの感覚から言えばとても信じられる話ではなかった。
とはいえ、目の前の伝令が嘘をついているとも思えない。これが、酒が入って悪乗りを始めたパーシヴァルあたりであれば、またサロメを担いで笑い話のタネにしてやろうなどという無謀な試みに挑戦しているのではないかとも考えられるのだが。
「とにかく、私が会ってみましょう」
そう言って、サロメは読みかけの本を閉じ立ち上がった。
城下へと降りながら、巧みな幻術に敵味方が混乱と猜疑の渦中に落とし入れられた過日を思い起こし少々警戒心を抱いたりもしたが、結局それは杞憂に終わる。訝しみつつ城下に出たサロメが見たのは、兵たちに取り囲まれ……しきりに酒を勧められては困惑しているヒューゴの姿だったのだ。その隣には、嬉々としてジョッキをあおるダッククランのジョー軍曹の姿も見える。
「あ、サロメさん!」
目聡くサロメの姿を確認したヒューゴが、その勇名にはあまりに似つかわしくない困惑した顔と声で訴えかけた。
「何とかして下さいよ、これ」
いくら酒が入っているとはいえ、前年までであれば信じ難いその光景に思わず苦笑が漏れそうになる。それを軍師の仮面の下に隠し、サロメはヒューゴではなく彼を取り巻く兵士達に向けて、殊更落ち着きを強調した調子で問う。
「いったい何事ですか?」
それに対し答えたのは、心の半ば以上を酒精に委ねた部下達ではなかった。
「まあ、新年の挨拶ってとこだ。本当は、まだ族長同士が飲み合ってる頃なんだが、ヒューゴの奴、酒がダメなもんでな。ルシア前族長に押し付けて逃げ出してきたってワケさ」
包み隠さず、しかも簡潔に事情を説明し、ジョー軍曹は声を上げて笑う。
「ま、結局はこうなっちまってるんだがな」
「軍曹っ!」
恐らくは余人にはあまり知られたくはないであろう情報を簡単に暴露され、ヒューゴは真っ赤になってそう叫んだ。怒っているのか、恥じているのか、そのいかにも背伸びした少年らしい反応に、サロメは堪えきれず笑みを漏らしてしまう。
「なるほど。ですが、よろしいのですかヒューゴ殿。新年の儀式は大切なものだと聞き及んでいますが?」
よろしいもよろしくないも既にブラス城に来ているのだからどうにも出来ないだろうし、そもそもゼクセン人がグラスランドの風習を気に掛けねばならないいわれもないのだが、サロメは一応ヒューゴを気遣って尋ねる。この辺りの、相手の立場に理解を示し相応に相手を立てる気の遣い方は、独自の諜報・交渉ルートを開拓するうちに染み付いたサロメの特性だ。
ヒューゴは、少しばかりばつが悪そうに頭を掻いたが、すぐに真面目な顔になって答える。
「いいんだ。鉄……ゼクセン人とも、無闇に争う必要はないと思ってるから。今年は、あんた達にも風と大地の精霊の加護をお裾分けに来てやったんだよ」
なるほど、とサロメは頷いた。ヒューゴは、友好の使者として自ら赴いたのであり、当面ゼクセンと事を構えるつもりはないと宣言しているのだ。やり方や言い様は少々稚拙だが、それだけに真摯な思いが見て取れた。
「有り難いことです。我等の女神からも、あなた方に祝福がもたらされますよう」
サロメは、そう返して軽く祈りの礼をとる。もっとも、騎士団の行動を左右するのは彼の意思ではなく、評議会の思惑とクリスの決断であるのだが。
そこまで考えて、サロメはクリスの不在を告げねばならないことを思い出した。
「本来なら、クリス様が返礼すべきところですが、生憎ビネ・デル・ゼクセに出向いておりますので――」
「ん? じゃあ、アレはなんだい?」
ジョー軍曹が、サロメの口上を遮り城の方を指差す。
何のことか、と思い指し示された方へ振り返ったサロメが見出したのは、ビネ・デル・ゼクセの自宅で休養に入っているはずの、騎士団を束ねる雄々しき女神の姿だった。


「ヒューゴ殿。それに、ジョルディ殿も」
何故ここに? と顔に書いて、クリスは驚いた調子で言った。
「新年早々、何かあったのか?」
主従似たり寄ったりの反応に、ジョー軍曹は思わず噴き出す。
「ははは。もう一度説明しとくか、ヒューゴ?」
「もう! やめてくれよ、軍曹っ!」
放っておけば漫才を始めかねない二人に代り、サロメがクリスに答えた。
「お二人は、新年の慶賀を伝えに参られたとのことです」
真面目な顔で頷き、クリスはヒューゴ達に声を掛ける。
「それは痛み入る。この日この場所にあることを女神に感謝を。あなた方にも、女神の祝福がありますよう」
そう言って祈りの礼を捧げるクリス。
「本当に、似た者主従だな」
少しばかり呆れの混じる苦笑を浮かべて呟き、ジョー軍曹はからかうように言った。
「こんな日にまで、そうお堅い顔を並べるもんじゃない。新年早々そんなに辛気臭いんじゃ、精霊たちが逃げちまうぞ」
「あ、ああ……」
幾らか気圧され呆気に取られるクリスをかばうように、サロメが進み出て応じる。
「ゼクセンにはゼクセンの流儀が御座います。まして、我らが騎士団長クリス様は、祭り騒ぎに浮かれて礼節を欠くようなお方ではない」
クリスは、過剰なまでのサロメの反応に目を剥いた。視線といい、口調といい、サロメはとても友好的とは呼べないスタンスで発言している。ついさっきまでは、周囲を取り巻く兵たちも含め和やかな雰囲気であったというのに、だ。
俄かに走る緊張に、ヒューゴの表情も硬くなる。酔いどれの兵士たちも、はや幾人かは酒気を吹き飛ばされ息を呑んだ。
だが、流石にジョー軍曹は経験豊かな一端の戦士である。
「まあな。そう来るとは思ったがね」
鉄頭らしくて結構、と肩をすくめ、ジョー軍曹は提案した。
「河岸を変えるかい? 共有地なら、いらんしきたりも関係無いだろう」
「ビュッデヒュッケでならば、問題無いでしょう」
表情を緩めて頷き、サロメはクリスに問う。
「いかがなさいますか、クリス様? 交渉のパイプを繋いでおくということであれば、評議会もとやかく言えないと思われますが」
ああ、なるほど。
漸く合点がいき、クリスは短く息をついた。
ゼクセン騎士団長が、あろうことかブラス城において、グラスランドの求めに応じ彼らの流儀に合わせた振る舞いなどすれば、騎士団の沽券にも関わる。それは、単純に意地だとかいう精神的な問題ではなく、政治的な問題も孕みかねない。評議会にそのような話が伝われば、騎士団がグラスランドの下風に立ったと非難されかねないし、最悪、クリスに反意あり、などという根も葉もない噂話を招く可能性もあろう。そして、ビネ・デル・ゼクセに篭る商人たちの中には、そういった物語の捏造と流布をライフワークにしているような輩も少なくない。余計な騒ぎを未然に防ぐためには、あえて「お堅い鉄頭」を演じねばならない局面もある。
サロメの行動は、それらを見越してのものだ。もちろん、忠誠を捧げる騎士団長がからかわれるのは面白くない、というサロメ自身を含む騎士たちの思いも反映してはいるのだろうが。
とはいえ、わざわざ差し出された手を無碍に払うこともない。そしてサロメの見る限り、ヒューゴの行動に裏は無いと踏んだのだろう。それは、クリスの判断とも合致する。
だから、ビュッデヒュッケで、という提案になるのだ。ゼクセンとグラスランド双方の民と伝統が等しい条件の下で尊重される彼の地でなら多少のことは問題にならぬし、そもそも評議会の耳にまで詳細が届くかどうか。
会見が行われたこと自体は、いずれ評議会も知ることになるかもしれないし、それを問題視する評議員も出るかもしれない。
しかし、それならそれでもよい、ともサロメは考えていた。
幾らか裏から手を回す必要は出るかもしれないが、グラスランドに対する強攻策を抑える政治工作を施すよい機会にもなる。
別段、グラスランドに肩入れしているわけではない。ただ、現在騎士団が置かれている状態を鑑みれば、正直なところグラスランドと事を構えるのは愚行と言わざるを得ない。ゼクセン本国も、遠征どころか防衛戦を行う戦費にも事欠いているというのが実情。この平和を維持するのは、今のところあらゆる観点から見て妥当で望ましいのである。一部の連中の利権争いと体面、そして長きに渡る抗争の歴史が生んだ感情の問題を別にすれば。
グラスランドの事情は、正確には判りかねる。ジョー軍曹がサロメほど深く考えているかどうかは怪しいものだし、ヒューゴに至っては明らかに少年的な若々しい理念からの歩み寄りであるように見えた。
だが、ともかくも彼我の求めるものは一致している。ならば、政治的な落しどころの判断はたやすい。
だからこそ、サロメはジョー軍曹の誘いを受けておくよう、暗に求めているのだ。ビネ・デル・ゼクセで休んでいるはずのクリスが何故この場所にいるのか、その疑問をとりあえず棚上げにして。
「そうだな、うん」
クリスは、サロメの思惑を完全に理解していたわけではなかったが、とりあえず頷いて同意を示す。
「但し、サロメ、お前にも来てもらう。構わないな?」
そう付け加えてサロメに向けたクリスの視線は、少々厳しい色合いを滲ませていた。
「私も、ですか? しかし、団長、副団長が揃ってブラス城を空けるのは……」
クリスの発言と視線の真意を諮りかね、サロメは困ったように言葉を返す。
だが、クリスはかぶりを振ってきっぱりと宣言した。
「私が、許す。サロメ、お前は軍師でもあろう? 軍師には、常に傍にあって助言をしてもらわねば困る」
「ですが……」
なおも反論しようとするサロメの言葉を、彼に倍する大声が遮る。
「これは、珍しいものを見た!」
背後からの言葉にクリスとサロメが振り向けば、威風堂々たるレオの姿があった。
「まさか、サロメ殿がクリス様の誘いを断ろうなどとは、オレの目と耳も酒にやられましたかな?」
冗談めかして言うレオに、サロメは溜息混じりに言い返す。
「レオ卿。待機中に酒を飲むような貴方ではないでしょう?」
「もちろん、一滴も呑んでませぬとも」
悪びれずに答え、レオは含みの無い笑顔を見せた。
「だから、ブラス城のことは任せてもらって結構ですぞ。何、心配御無用。腕立ての百回もやらせれば兵どもの酒も抜けるでしょうしな」
そう言って豪快に笑うと、つられたように取り巻きの兵たちからも笑いが巻き起こる。レオが時として彼が今の言った通りのことをやらせかねない人物であることを知っている者たちは、若干笑いが引きつっていたけれども。
「決まりだな、サロメ」
有無を言わさぬ口調で宣告し、クリスは続けた。
「すぐに仕度を。ヒューゴどのと共に、西の城門で待っている」
「今すぐに、ですか?」
「馬で駆ければ、宵のうちに着けるだろう。異論は無いな?」
異論など差し挟む余地も無い調子でそう告げて、クリスはサロメの答えも聞かずにヒューゴたちを誘って城内へと入って行く。
さすがにあっけにとられた顔でそれを見送り、レオが首を捻りつつ問うた。
「何か、クリス様の御不興でも買うような真似をされましたかな、サロメ殿?」
「いえ……見当もつきません」
こればかりは、サロメもさっぱりわからず首を捻るしかなかった。


新年のビュッデヒュッケ城は、例年に無く活気付いていた。
もっとも、ブラス城やビネ・デル・ゼクセのそれとは比べようもない。炎の英雄の下集まった義勇軍は解散し、その主要な者たちは既に立ち去った後なのだから。
それでも、名残惜しさに城に残っている者もいれば、そこそこの客を見込んで訪れている商人たちもいる。それは、この城の成功を示すものに違いない。少なくとも、心配性な城主トーマスがホッと胸を撫で下ろせる程度には賑わっていたのだ。
そこへきて、炎の英雄ヒューゴと銀の乙女クリスの来訪があったのだから、新年の宴もますます盛り上がりを見せた。全く予期せぬ事態であったため、トーマスやセシル、セバスチャンなどは多いに驚かされたし、ネイと共に裏の森の散策から戻ったところをクリスに目撃されたロランが、彼らしくもなく慌てて弁明を始めるなどという一幕もありはしたのだが。
ヒューゴと二人で競うように駆けて行くクリスに置いてけぼりにされたサロメとジョー軍曹がようやく城に辿り着いたときには、そういった一連の騒ぎが収まり、相変わらず弱腰のトーマスが、おっかなびっくりといった風情でクリスたちの用件を尋ねているところだった。
「ヒューゴ殿と忌憚無く話せる場が欲しかっただけだ。他意はないよ」
そう説明するクリスの傍らに立つロランが、サロメの到着を知り少しだけ恨みがましい視線を送る。
サロメは、不測の事態だ、とアイコンタクトを送り、かぶりを振って見せた。一応意図は通じたのだろう、ロランは軽く肩をすくめてからクリスに注意を喚起した。
「クリス様。サロメ殿も着かれたようです」
その言葉に、漸く気付いたかのように――そう見せかけているつもりなら、実に下手な演技だったが――振り返り、クリスは不満そうな――こちらは、もし演技なら演劇大賞ものだ――顔で苦言を呈する。
「遅いぞ、サロメ。もう少し、乗馬の技も磨いた方がいい」
あえて逆らうようなことはせず、サロメは素直に頭をたれた。
「はい。お恥ずかしい限りです」
その隣では、ジョー軍曹が何やらヒューゴに文句を言っている様子だったが、気にせずクリスはトーマスに向き直って言う。
「城主殿、空いている部屋をひとつ貸してはくれないか?」
「はい。以前クリス様が使われていた部屋が、そのまま空いているはずです。そちらをお使い下さい」
「済まないな」
にこやかに答えるトーマスに礼を言い、クリスはサロメに視線を転じた。
「サロメ、来てくれ」
「はい。何か?」
「さすがに、鎧は無粋だ。脱ぐから手伝って欲しい」
クリスの鎧は、重装騎兵用のプレート・アーマーだ。着脱は、一人で行うと意外に難渋する。そういった場合の補助は、普通ルイスのような小姓が行う。本来サロメのような者が行うべきことではないが、ルイスがこの場におらず、また、騎士団以外の者でこの手の鎧に慣れている人間などそうそういないのだから仕方が無い。席次から言えばロランに声を掛けるのが筋だろうが、生憎ロランはエルフ族の出身のアーチャーであり、一族を代表する形で騎士団に編入されたという経緯上、小姓の経験が無い。多少の家柄はあっても小姓から叩き上げられたサロメの方が、そういった作業には慣れている。
「承知しました」
そう答え、サロメはクリスに付き従い、未だ城壁に突き刺さったままになっている船に設えられた部屋へと足を向ける。
サロメが脇を通り過ぎるとき、ロランが小さな声で尋ねた。
「何か、あったのですか? クリス様のご様子が、少し変に思われるのですが」
その言葉がクリスの耳に届いてはいないか、と少し気に掛け、どうやら聞かれてはいないようだと知れて安堵の溜息をつき、サロメはかぶりを振る。
「見当もつきません」
レオに答えたのと同じ台詞を残し、サロメはクリスの後を追った。


賑わっているとは言っても、ビュッデヒュッケの城内はやはり静かなものだった。特に、船の方にはもはや風呂ぐらいしか機能している施設は無かったから、人通りもほとんど無い。クリスたちは、誰ともすれ違うことなく部屋へと辿り着いた。
「何か、懐かしくも感じるな。全てをなげうつ覚悟で、この城に過ごした日々も」
少しは機嫌を直したのか、クリスが落ち着いた声で呟く。
サロメは、扉を閉めつつ相槌を打つ。
「はい。決して長い間ではありませんでしたが、色々なことがありましたから」
「そうだな」
応じつつ振り返り、クリスはスッとサロメの脇を抜けた。
「本当に、色々あった……」
言いながら、扉に閂を掛ける。
「クリス様?」
怪訝に思い眉をひそめるサロメ。
クリスは、やおらその胸倉を掴み勢いよく壁に押し付けた。
突然のことに対応もままならず、背を強打して苦しげに息を詰まらせるサロメに、クリスは射殺さんばかりの激しい視線を向ける。
そして、かみ締めるように重々しく言った。
「……昨日、一枚の油絵を見た」
苦しい息の中から、サロメは鸚鵡返しに言葉を搾り出す。
「油絵?」
寸毫の冗談も許さぬ真剣な表情のまま、クリスは頷く。
「まさかな、サロメ。お前にああいった嗜みがあったとは知らなかったよ」
その一言で、サロメは彼女が何を見たのか察した。
だから、今度は肉体的なものよりも精神的な要因によって言葉に詰まる。
「……もう、十年以上も描いてはいませんから」
それだけ言うのが、やっとだった。
クリスは、何の偶然か見付けてしまったのだろう。
ワイアット・ライトフェローに贈られた、小姓時代のサロメ・ハラスのサインが刻まれたあの絵を。
「判ったみたいだな」
予定外に早い、ブラス城への帰還。
常に無く強引に同行を強いたこと。
なるほど、全て説明はつく。
最初から、この機会を狙っていたのだ。
「でも、あれを見たときの私の気持ちまでは判らないだろう?」
クリスが、冷たい瞳と声を保っていられたのは、そこまでだった。
「何故黙っていた!」
雷のような一喝。
唐突に、クリスは爆発した。
「答えろ、サロメ! 何故父のことを教えてはくれなかった?」
研ぎ澄まされた剣のように鋭く輝く瞳に見据えられ、サロメはもはや一片の言葉も紡ぐことが出来ない。
言い訳はしようとも思わないし、さりとてクリスの心を静める呪文にも心当たりは無かった。
「信じていたのだ! たとえゼクセンを敵に回すようなことがあっても、お前だけは私の味方だと。それなのに……!」
酷く、胸が痛む。
それほどまでに信頼してくれた人に、真実を告げることが出来なかった。
それは、サロメ・ハラス一生の不覚。
詰まらない打算と、その裏に隠された惰弱さが招いた、取り返しのつかない失態。
「酷い裏切りだ! 酷過ぎる! 私は、父と積もる話が出来たかもしれなかったのに! 恨み言のひとつも、言えたかもしれなかったのに! もう一度、子供のように胸に抱かれることも出来たかもしれなかったのに!」
烈火の如く捲くし立てるクリス。
激情に燃える瞳には、いつしか涙が浮かんでいた。
これほどまでに想いが強いから。
これほどまでに痛みが酷いから。
「何故だ! 父が、ワイアット・ライトフェローが、そう望んだからか? 所詮、お前は父の部下なのか!」
言い逃れることなど、出来ない。
この瞳を前にしては。
弁解の余地など、あるわけがなかった。
クリス・ライトフェローを前にしては。
だからサロメは、ただ静かに頭をたれた。
「……すべて、私の不徳です。存分に御処断下さい」
そう。
クリス・ライトフェローには、その権利がある。
サロメ・ハラスを好きにする権利が。
他の誰でもない、サロメ自身がそれを認め、それを望む。
「ただひとつ」
だが、ひとつだけ。
言わねばならぬことがあるとするのなら、ひとつだけ。
「サロメ・ハラスが字と忠誠を捧げたのは、クリス様、貴女ただ一人です。他には、ない」


どれくらい、時間が経ったのだろう。
不意に目を伏せ、クリスは戒めを解いた。
「済まない。八つ当たりだ。許せ」
視線を合わせずに言って、クリスはサロメに背を向ける。
泣き顔は、あまり見せたいものではないから。
「クリス様……」
「サロメ」
遮って、震える声でクリスは続けた。
「支えてくれるな? これからも、ずっと……」
その問い掛けは、サロメに言わせれば無意味なものだ。
答えの決まりきった質問など、質問としての意味を成さない。
だが、その言葉は、きっと無意味でも必要なものなのだ。
「サロメ・ハラスの全ては、とうに捧げて御座います。答えるまでもありません」
当然のように答えるサロメに、クリスは素早く向き直り再度詰め寄る。
「傍にいてくれるか、と訊いているんだ」
至近に迫るクリスの輝かしい瞳に気圧されつつも、サロメは努めて平静に答えた。
「はい。それが軍師の務めです。もちろん、私の望みでもあります」
「い、いや……そうではなくてだな」
どうも、微かに意図と結果の齟齬を感じる。
そう思うと途端に気恥ずかしさが頭をもたげ、クリスは少し身を引いてほんの少し頬を赤らめた。
「はい。何か、気になることでも?」
心底心配そうに尋ねるサロメ。
あり難いといえばあり難いが、クリスとしては少々空回りの疲れというものを感じてしまう。
「……もう、いい。とりあえず、今はいい」
何故、そうまで鈍いのか。
それとも、私は対象外か?
ガクリと肩を落せば、本当に不安げにサロメが訊いてくる。
「クリス様、どうなさいました?」
「うるさいっ!」
拗ねたように叫んで、クリスはズカズカと荒い足取りで部屋を出た。
とりあえず、顔を洗おう。
せめて、笑顔が映えるように。
そこから、もう一度始めよう。
そう思いつつ。
後には、狐につままれたような、あっけにとられたサロメが残されるばかりだった。