戻る Episode3 "Befor a storm."
  Act4 "We'll rescue a little girl ?"

怜樹の診察院は、時ならぬ慌しさに包まれていた。
もっと下層階級向けの安っぽい病院であれば話は別だろうが、怜樹の診察院は仮にも富裕層向けの施設だ。本来なら、血の行進事件の余波も一時的な医薬品の欠乏程度で済むはずである。
しかし、現実には二つの例外が怜樹から穏やかな夜を奪っていた。
ひとつは、怜樹自身が拾ってきた青年ワタル・ヤマモト。ドクターネットの照会では、Dランク市民の労働者らしい。労働者と言っても定職に就いているのではなく、その日その日を当てもなく暮らしている、典型的なDランク市民だ。
直近に大口径炸裂弾を受けた影響で鼓膜が破れていた他、身体中に打撲傷が見受けられる。もっとも、そのどれも致命的なものではなく、ワタルの運の良さに嘆息したものだ。
怜樹から安らかな睡眠時間を奪ったもうひとつの要因は、顔馴染のアウター・サヴェッジであるアオとレイが運び込んできた患者である。
彼らがその男を発見した時、とりあえず生きてはいるようだったがレイの見立てではかなり重度の打撲傷を頭部に負っているようだったとのことだ。実際、その見立ては間違ってはいない。
頭部の打撲傷となると、さすがに素人では手を出すのが躊躇われる領域だ。やむなく、アオたちは人の目を盗みつつ馴染みのある怜樹の下へと男を運び込んだのである。これもまた、理に適った判断ではある。
アオが持ち前の人の良さからこの処置を持ちかけたとき、レイは常になく文句を言うどころかふたつ返事でアオの意見に賛成して色々と骨を折った。さすがに怪訝に思ったアオが問い質すと、レイはレイでこの男に訊きたいことがあるのだという。
アオとしては、レイの見た少女を攫った外道の行方が気になっていたのだが、レイは男に話を聞くまでは動かない、と常に無く頑なにアオへの協力を拒否した。
さすがに、レイの協力無しで誘拐犯を探して回るのは効率が悪い。仕方なく、男から話を聞いたらすぐにも少女と誘拐犯の行方を追う、という条件でアオはレイの意を汲むことにした。
そういうわけで、アオたちは男の目覚めを待って怜樹の診療所で暇を潰している。本来なら、怜樹も安らかな眠りの中にあるであろう時間に、だ。
さすがの怜樹も仏頂面になろうというものだ。
「それで、いったいどうしたんですか。貴方がたが単なる善意で怪我人を運び込んで来るとも思えないのですが」
幾分呆れ顔で問う怜樹に、レイはわざとらしく口笛など吹きつつ肩をすくめる。
「そりゃまた、随分な言いようだな、ドクター。オレたちだって、タマにゃあ人助けもする」
「この混乱のさなか、身元不明の怪我人を私に押し付けることが、ですか?」
少々うんざりとした声で言う怜樹に、あまり悪びれた様子もなくアオが答える。
「悪いとは思ってる。でも、俺たちが堂々と敷居を跨げる病院が他になかった」
「よろしい。私の診察院に来たことに関しては良しとしましょう」
溜息混じりにアオを制し、怜樹は続けた。
「私が知りたいのは、貴方がたにとって結局彼は何なのか、というところです。ジョルジオ・ベルルスコーニ。Dランク市民。職業は、所謂トラブルシューター的なものらしい。そのような、ドクターネットに問い合わせてわかる情報ではなく、貴方がたにとっての彼の価値というものが、ね」
アオは、困った顔で首筋を掻きつつ答える。
「まあ、放っておくのも寝覚めが悪いと言うか……意図的じゃなかったにしても、そいつのお陰で命拾いしたんだ。だからだよ」
「では、本当にただの善意だと?」
問い返しつつ、怜樹はレイに視線を向けた。どうせ、アオは本当にただの善意で動いているのであろうから。何か含むところがあるとすれば、この男の方だろう。
案の定、レイは苦笑を浮かべつつ両手を挙げ、降参の意思を示す。
「やれやれ、相変わらず鋭いな、お前は」
何を言い出すのか、と疑問の表情を浮かべているアオを置き去りにして、レイは砕けた調子で説明を始めた。
「あの男、お前の調べではジョルジオっていうのか? そいつ、レジスタンスに喧嘩を売りやがったんだよ」
「レジスタンスに?」
さすがに、怜樹の表情が厳しくなる。
レジスタンスがらみの人間を匿ったとなると、それだけで防衛機動軍にマークされかねない。
その上、ジョルジオがレジスタンスに刃向かったというのが事実なら、今度は逆にレジスタンスに狙われるかもしれない。
どちらに転んでも、危険なことこの上ない人物だ。
「ああ。どうも、レジスタンスが市民に発砲していたらしい。それは、アオも見ている」
同意を示すように頷くアオ。
怜樹は、顎をつまみつつ椅子に深く掛け直し、唸るように呟く。
「解せませんね。彼らにとって、市民を敵に回してメリットがあるとも思えない……」
「だろう?」
我が意を得たり、とばかりに頷き、レイが付け加える。
「ところがどっこい、もうひとつ情報があってな。どうも、血の行進事件、軍の謀略らしい」
「それは、また」
怜樹は、思わず天を仰ぎ嘆息した。
あれだけ大きな事件ともなれば、そういう可能性もある。何となく思うところがないではなかったが、こう正面から断言されると事の重大さに気付かざるを得ない。
つまり、ついに軍部は恐怖政治への第一歩を踏み出した、ということだ。
そこまで考え到り、ふと気付いてレイに視線を戻す。
「まさか、とは思いますが……」
「もちろん」
レイは軽く頷き、怜樹の希望とは正反対の言葉で応じた。
「上手くいけば、軍をハメる突破口になる。軍が忙しくなりゃ、オレたちの仕事もやり易くなるってもんだからな」
「レイ、貴方は――」
言葉を返そうと口を開いたとき、傍らの端末にコールサインが灯った。見れば、病室のネット端末が使用されているという旨の警告だ。患者の生活に不便がないよう備え付けられている設備で使用に制限があるわけではないが、深夜などに使用された場合健康管理上の問題から警告が出るように作られている。
「どうした?」
怪訝そうに尋ねるレイに、怜樹は簡潔に答えた。
「件の患者が意識を取り戻したようです。会われますか?」
「もちろん。そのために、わざわざ待ってたわけだからな」
そう答え、レイは席を立つ。
「何号室だい?」
「3号室です。ここに運び込まれた以上、一応は私の患者であることをお忘れなく」
暗に乱暴な所作をせぬよう釘を刺すと、レイは肩をすくめてそれに応じ、さっさと会談の場となっていた診察室から出ていってしまった。
怜樹は、やれやれ、と溜息をついて立ち上がり、慌ててレイの後を追おうとしていたアオを呼びとめる。
「アオ、少しいいですか?」
「何だい、ドクター?」
「いえ……」
呼び止めてしまってから、どう言って良いものか言葉に迷う。
「レイが暴走しないよう、注意しておいてください。今の彼は、少々気が急いているように思います」
一通り逡巡し、怜樹はそれだけ告げた。
さすがに、アオも怜樹の態度を怪訝に感じた。怜樹は、何を言いたいのだろう?
アオにとって、怜樹はレイから紹介された人物だ。それはつまり、怜樹とレイの親交はアオとレイのそれよりも長い、という単純な事実を示している。
その時間の差の中に、何かアオも知らないレイの一面が埋もれているのだろうか。アオですら知らないレイの過去を、怜樹は知っているのか――
僅かにかぶりを振って、アオは馬鹿げた雑念を頭から追い払った。
レイはレイだ。かけがえのない相棒であり、全幅の信頼を置いている。そして、レイにとっての自分も、そうであれば嬉しい。
そう思うのなら、レイが語らない過去など大したことではないのだ。
今は知らずとも、必要があればレイの方から話してくれるだろう。その時が来なければ、やはり大したことではなかったということ。
何も問題はない。それが、相棒であると言うことだ。
そう思ったから、アオは軽く苦笑しつつ答えた。
「いつも手綱を引かれてるのは俺の方なんだけどな。忠告は、有難く受け取っておくよ」
怜樹は、その罪のない笑みがレイを救わんことを願わずにはいられなかった。


興味津々といった様子で、リーファは診療所の内部を見渡していた。
別に病院自体は珍しくもないが、あまり血統の良くないリーファにとって怜樹の職場は実に病院らしくない場所のように見える。
もちろん、そこはかとなく漂う薬品の匂いや掲示板の内容などからそれと知ることは出来るのだが、今ひとつ病院としての実在感に欠けるように思えるのだ。
待合室は小奇麗なサロンのようであったし、受付に鉄格子どころか仕切板も無いというのも違和感があった。
調剤室は泥棒を歓迎しているかのように無防備で、ジャンキー対策の制圧設備すら備えられていない。
つまり、そのような心配は要らない場所なのだ、ということ。
それは、スラム近くの厳しい環境で生活するリーファから見れば、やはり別世界と言ってよかった。
その別世界の住人にして診療所の主人たる怜樹・オルネイトは、先刻患者を運び込んできた二人組みの男たちと何やら密談中。いや、彼らは元より知り合いのようだったし、単に診察室で会話しているだけなのだから、密談というのも聞こえが悪いが。
暫くの間そうやって時間を潰していると、先程怪我人を運び込んできた男の片割れが診察室から出てきて、足早に病室の方へと向かって歩いて行った。
何か、動きがあったのだろうか?
そう思いつつ、病院のものにしてはやけにクッションの効いたソファから立ち上がる。
と、丁度診察室からもう一人の男と怜樹が歩み出てきた。
「あ、ヤッホー、先生。どう、あのカミカゼ・ボーイ?」
声を掛けつつ駆け寄ると、怜樹は落ち着いた声で応じる。
「いえ、別の患者ですよ。ワタル君は、まだ目が覚めていません」
「ああ、あの大男の方かぁ」
「ええ。とりあえず、診察を兼ねて面会に行くところです」
そう言い置いて、怜樹はさっさと先に歩いて行った男の後を追う。
リーファは、さも当然のように彼らの後を追った。
何を言われようが、こんな面白そうな事態を見過ごすのは彼女の主義に反することだから。


「くっ! 痛ぁ……」
ジョルジオは、頭部の鈍痛に堪えつつ身を起こした。
覚束ない記憶によれば、レジスタンスの女闘士クリスに殴り倒され地を舐めていたはず。だが、現実に彼が寝ていたのは裏路地の冷たい地面ではなく、真っ白で清潔なシーツがひかれたベッドの上だった。
つまり、どこかの奇特な人物が、病院まで運んでくれたということだろう。
そう納得し、ジョルジオは周囲を見渡す。
小奇麗な部屋の雰囲気は、彼がいつも世話になる下町の藪医者とは似ても似つかない。結構、ハイクラスな病院であろうということがうかがえる。
そうして部屋を眺めるうち、ジョルジオはサイドボードに備えつけられた端末を発見した。小振りな液晶画面とキーボードが付属しているところを見ると、ネットに繋がっている公算が高い。金持ちの入院患者が、無聊を慰めたり取引の指示をしたりするのに使用するのだろう。
別に金持ちの所作に倣ったわけではなかったが、ジョルジオは端末のスイッチを入れた。いずれにせよ、仕事を探す気でいたのだ。ここの医療費も馬鹿にはならないだろうし、トラブルシューターネットに入って今後の方針を考えておいた方がいいかもしれない。
「さあて、何か仕事はあるかしらん?」
言いつつ、検索を開始。玉石混交の情報が画面一杯に表示される。
幾つかページをめくったところで、ジョルジオの手が止まった。
「あら? いいじゃない、これ」
攫われた少女を救出すること。付帯条件なし。成功報酬10000ドル。
好条件だ。
特に『攫われた少女』という辺りが、とてつもなく好条件だ。
興味に駆られ、この仕事に関する情報BBSへ跳ぶ。掲示から数時間経っているらしく、既に幾つもの情報が寄せられていた。
誘拐の犯人像に関しては、これはもうあっさりと特定することが出来た。
蒼いトライクに乗ったトラブルシューター、D.B.。これが本命のようだ。
中には、ジョルジオの名を挙げている頓珍漢な書き込みもあったが。
少女を攫うなど、とんでもない。
『真性』である彼には、少女の意向を無視するような真似は外道以外のなにものでもなかった。
それはさておき、相手がD.B.となると少々厄介だ。
D.B.は、幾つかの点でトラブルシューターの中でも結構な有名人である。
例えば、維持管理に大金の掛かるガソリンエンジンのトライクを乗り回していること。
例えば、トラブルを解決するどころかトラブルを振りまいて歩いているような奔放さ。
そして、それでも契約を希望する相手がいるだけの、したたかさと戦闘能力の高さ。
更には、バックに強力なネットダイバーが付いているとの噂もある。
ジョルジオ一人で相手取るには、少々荷が重い男であることは確かだ。
少なくとも、腕の良いネットダイバーの支援が必要だ。
それから、出来れば弾除け。
こういったアイテムを、5000以内で調達しなければならない。
夢のサイバーボディを手に入れるためには、是非とも5000以内で。
「さて、どうしたものかしらん?」
決して得意ではない思案に入ろうと、腕を組み首を捻ったところで、不意に病室のドアが開いた。
「よう、お目覚めかい。ジョルジオ・ベルルスコーニ」
「あら? あなたはどなたさま?」
いきなり自分の名を呼んだ小柄な黒髪の男に、とりあえず問い返す。
「オレはレイ。お前をここまで運んできた酔狂な野郎の一人さ」
答えつつ、歩み寄ってくるレイ。
とりあえず、敵意は無さそうだ。
ならば、そう無碍に扱う必要もない。
「あら。それはありがとう。実際、感謝してるわよん」
「それは、何より」
言いつつ笑い、レイはジョルジオの向かいにあったパイプ椅子に座る。
「で、その感謝の念に突け込むわけじゃあないんだが、ひとつ訊きたいことがあるんだが」
「わたしに?」
いったい、レイは何を聞き出そうというのだろう。
ジョルジオには、見知らぬ人間に問い質されねばならないようなことは何も知らないはずだが。
「レジスタンスに喧嘩を売ったんだって?」
「そうねぇ、成り行きでそうなっちゃったんだけど」
「それで、だ。何か見てないか? 例えば、妙に挙動不審なヤツがデモ行進の中に混じってたとか」
いったい何が言いたいのだろう。ジョルジオにとって、あの一件はレジスタンスに失望する契機にしかなっていないのだが。
とはいえ、とりあえずは恩人が知りたいといっていることだ。一応、出来る限りのことは思い出してみようとする。
「ん〜、確か、デモの流れと逆の方向から人が走ってきてわたしにぶつかって。それで、いきなり銃撃されて。銃は、たぶん小口径よん。そんな、威力ないみたいだったし。んで、カッとなっちゃって、走ってって殴り倒して殴り倒されて……あと、市民に被害が云々とか、無駄骨だったとか。そんなこと、言ってたような気がするわねぇ」
「なるほどな」
深く頷いて、レイは呟いた。
「確証は無し、か。でもまあ、これである程度謀略説の信憑性が増したな」
「謀略?」
耳聡く聞きつけた言葉を、ジョルジオは鸚鵡返しに口にした。
ジョルジオの様子に、レイはもう一度頷く。
「ああ。血の行進事件、お前がブッ倒された時の騒ぎな、あれは軍の謀略だったって話があるんだよ。で、レジスタンスとしてはその尻尾を掴まえようと動いてたんじゃないかってな。これは、オレの憶測だがね」
「あら、そうだったの?」
「十中八九、間違いない。そう考えておけば、とりあえず辻褄は合う」
「あらら、そうだったのねぇ」
ジョルジオの中から、先刻までのレジスタンスに対する不信が嘘のように消えて行く。
というよりも『さすがレジスタンス、わたしより鼻も利くし考えも深いし実行力もあるのねぇ』という感想に置き換わる。
ジョルジオ・ベルルスコーニ。つくづく脳細胞が単純な男ではある。
ドアの方から別の声が聞こえたのは、ジョルジオがそうやって頷いている時であった。
「レイ、どうだ? 用事は済んだのか?」
その声に振り向けば、今度は均整の取れた体格の良い銀髪碧眼の男が立っていた。
「ああ、だいたいはな」
「だったら、早く行こう。お前の言っていた、攫われた少女の行方が気になる」
「そう急かすなよ、アオ。どっちにしても、まだ情報が……」
二人の遣り取りにピンときたジョルジオは、慌てて口を挟んだ。
「ちょっと! もしかして、あなたたちクライノーワの行方を追ってるの?」
その問いかけに、アオとレイは呆気に取られたように間抜けな顔でジョルジオに視線を向けた。
この男、何か知っている。
直感的にそう悟ったアオは、ズカズカとベッドに歩み寄り問い質す。
「何か知っているのか、お前?」
ジョルジオはニヤリと笑って当然のように答える。
「D.B.のことなら、今調べようとしてたところ。蒼いトライクに乗ってるヤツのことじゃないのん?」
「ああ、間違いない。何か知っているのか!?」
思わず、掴みかかるような勢いで身を乗り出すアオ。横手で、ピシャリと手の平で額を打ったような音。
レイはといえば、ピシャリと手の平で額を打って、呆れ顔で天を仰いでいる。
どうやらこの二人、アオの方が色々と扱いやすいようだ。
さて、どうやって安く弾除けを入手するか。
そう思いつつ、ジョルジオは話を切り出した。
「攫われた女の子はクライノーワ。トラブルシューターのネットワークに、奪還依頼が出てるわよん。でも、まだ誰も実際には動いてないみたい」
「何故?」
本気でわからない、といった按配のアオに、レイが溜息混じりに言う。
「金か相手か、どっちかがシビアなんだろ」
「まあ、正解かしらん。料金はそこそこだけど、相手がちょっとねぇ」
「そんなにヤバイ相手なのかい、D.B.ってヤツは?」
レイの問いに、ジョルジオは小首を傾げた。
「まあ、強いことは強いはず。ただ、人数で攻めて攻め切れない相手じゃない……ところが、人数を揃えるとなると、お金が掛かるのよねぇ」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう。こうしている間にも、その子がどんな目に遭っているかを考えれば」
アオが、今にも駆け出しそうな様子で問う。
「お前は、どうするつもりなんだ?」
「わたし? 当然、追うつもりよん。お金も要りようだし、クライノーワも助けてあげたいもの」
アオにしてみれば、当然の答えだ。
人が、人の自由を奪って良いわけがない。
年端もいかぬ子供なら、なおさら。
それは、アオにとって譲れない一線だった。
――ドクターが言いかけたことも、レイにとっての譲れない一線なのか? これだけ、ジョルジオにこだわったのも……
ふと、そんな思いが脳裏をよぎるが、慌ててかき消す。ついさっき、気にはすまいと決めたことだ。
それに、とにかく今は攫われた少女、クライノーワのことが優先である。
ジョルジオはと言えば、何やら誤解――つまり、ジョルジオを『弱きを助ける意思のある正しい人間』とでも認識しているような――があるのを感じ取っていたが、敢えて誤解されるにまかせておくことにした。この手の人物は、上手く利用できるなら実に便利な相手であるから。
「それは、渡りに船ってヤツだ。あいつを追うんなら、俺たちにも協力させてくれ」
「ん〜、でも報酬がねぇ……」
一応渋ってみるジョルジオ。
どうにもじれったく、ついついアオはレイが聞けば深い溜息をつくような言葉を口走ってしまう。
「金の問題じゃないんだ! あいつのお陰で少女が一人不幸になる、そんなのは許せないんだよ」
ジョルジオが思わず心中ほくそえんでいるところへ、横合いからレイの呆れ果てたような声が掛けられる。
「おい、アオ。幾らなんでも、タダ働きはゴメンだぜ。まあ、大義名分は立つけどなぁ」
横合いから、当然というべきか呆れ果てたようなレイの声。
反論しようかと口を開きかけたアオの機先を制し、ジョルジオが言った。
「譲歩して、一人1000ってところかしらん? それ以上なら、共闘はゴメンだわねぇ」
さて、ここからが本当の交渉だ。
チラリと――少しばかり恨めしそうな――視線をアオに送り、若干疲れた声でレイが応じる。
「そりゃまた、随分お前さんの取り分が多いんじゃないか?」
疲れた顔で反論するレイ。まあ、大甘なアオが相棒では、こういった交渉事では疲れもするだろうが。
「どっちにしても、わたしみたいなトラブルシューターじゃなきゃクライノーワ奪還の報酬は貰えないんだから、その辺考慮して欲しいところねぇ。それに、全部が全部わたしの取り分にはならないのよね、これが。どっちにしろ、D.B.の居所探るためにネットダイバーとか雇わなきゃいけないわけだし」
涼しい顔をして、ジョルジオはアドバンテージを提示する。
あとは、レイたちがどれだけの材料を提供できるかで値段が決まる。
レイは、腕組みしつつ短い思考に入る。
怜樹はと言えば、そんな様子を呆れ顔で眺めていた。
どこの世界に、ほんの少し目を話している隙に病室でビジネスの話をする――しかも、既に細部の交渉にまで話が進んでいる――ような輩がいるであろうか。
いや、ここに3名ほどいるのが。
どうやら、怜樹が危惧していたように軍に喧嘩を売る云々という話ではないらしいのが救いだが、とはいえ彼らにはここが病室であることを早急に思い出して頂きたい。
そのことについて注意を喚起しようと、怜樹は口を開きかけた。


とりあえず、寝覚めは最悪だった。
轟音。衝撃。
そこまでは覚えている。
だが、その先のこととなると記憶は曖昧で脳裏に風景を思い起こすこともできない。
ただ、D.B.と名乗った男が、トライクの修理を行う必要性があることと、そして恐らくは北に向かうであろうという情報。
それだけは、覚えている。
「……くっ!」
うめきつつ、上体を起こす。
そうしてから気付いたが、どうやらベッドに寝かされていたようだ。辺りは暗く、あれから結構な時間が経っていることを示している。
暗いとは言っても、足下灯のものだろう、僅かに光源はあったので目が慣れるに従い周囲の状況を見て取ることが出来るようになった。
硬いベッドだが、シーツは上等で清潔。見回せば、白いカーテンやパーティション。こじんまりとした、しかし趣味のよいサイドボード。その上には、数輪の花が挿された花瓶。
確認するように、ワタルは一人ごちた。
「病院かよ」
漠然とそれなりに程度のよい病院なのではないか、と思う。
ワタルの住処の近所にあるような、安く薬品が手に入ることだけが取り柄の藪医者とは雰囲気からして違う。
こんな場所にいるということは、D.B.にしてやられたということか。
横たえられていたベッドの代金のことも気にならないではなかったが、ワタルの思考はそんな些事よりもD.B.に対する敵愾心で占められていた。
とにかく、殴られっぱなしというのでは気が収まらない。
あの場合、火力の差は如何ともしがたかったし、相手が荒事のプロであることもわかってはいる。
だが、それで自分を納得させてしまえるほど、ワタルは年老いてはいない。
「チクショウ! 草の根分けてでも探し出して、リベンジしてやるぜ!」
復讐心と呼ぶには幼すぎる熱意をもって、ワタルは痛む頭を押さえつつベッドから飛び降りる。
とにかく、ここを出なければ話が始まらない。
ご丁寧にもサイドボードにまとめてあった身の回りの物を手に取り、ワタルは飾り気のない白い扉を開け廊下へと進み出た。
廊下も薄暗かったが、点々と蛍光灯が灯っており行動に不自由はない。
そして、左手に明るい光。別の病室のようだ。
そちらに振り向くと、何やら話し声のような音が聞こえてくる。それで、ようやくワタルは自分の左耳がイカレていることに気付いた。恐らく、D.B.の攻撃で鼓膜を持っていかれたのだろう。
幾分D.B.への怒りがいや増すのを感じつつ、ワタルは声の洩れ来る方へ足を踏み出した。
すると、向こうの方から小柄な東洋系の少女が駆けて来るのが見える。もっとも、視線を追えば彼女の目的がワタルではなく、何故か扉が開け放たれている病室であることはすぐに理解できたが。
彼女の更に後ろには、医者らしき白衣の男がゆっくりと歩いていた。彼もまた、病室に用があるのだろう、そちらに視線を向けている。
まあ、医者なら病室に用があっても何ら不思議はないが。
――ちょいと隠れて遣り過ごそうかな?
ふと、診察料のことが気になり、医者の目から逃れる先は無いかと首を巡らせる。
だがそのいささか貧乏ったらしい考えは、健在な右耳が捉えた、件の病室から漏れ聞こえた一言によって、あっさりと吹き飛んだ。
「……どっちにしろ、D.B.の居所探るためにネットダイバーとか雇わなきゃいけないわけだし」
D.B.だと?
何か、知っているヤツがあそこにいるのか。
そう思うと同時に、ワタルは鼠を見つけた猫のごとき俊敏さで廊下を駆け抜けていた。
やはり駆けて来ていた東洋系の少女と扉の前で衝突しそうになったが意に介さない。まあ、それはあちらも同じことのようだったが。
二人は、ほぼ同時に病室の扉に取りつき、競うように中に向かって声を張り上げた。


「はいは〜い! 優秀なダイバーならここにいるもん!」
「D.B.だと! アンタ、あのオッサンのこと何か知ってんのか!?」
戸口に現れたワタルとリーファに、室内から3人分の視線が向けられる。怜樹は、文句を言おうとした矢先に出現した更なる騒ぎの元に絶句し、ただ頭を抱えて天を仰ぐばかりだったので勘定には入っていないが。
どうやら、彼らも一枚噛みたいらしいと判断したジョルジオは、早速話を振ってみることにした。
競合者がいれば、買値はより安く抑えることが出来るからだ。
とりあえず、まずはネットダイバーから押さえるべきか。
「基本は5000からだよ! 面白そうな話なら、値引いてもいいもん」
話を振るどころか、リーファ自ら条件を提示してくる。
D.B.と関連している上にこんな面白そうな話、彼女が見逃すはずもないのだから当然ではあるが。
もう一声値を下げさせようと、ジョルジオは少々低すぎる金額を提示する。
「ん〜、3000がいいトコねぇ。D.B.って男の居場所を突き止めるだけだしぃ」
3000では、ほとんど末端価格というところ。
しかし、リーファにとっては報酬の多寡よりも自分の趣味興味が優先事項である。
「オッケオッケ! それなら乗ってあげるもん」
リーファとの交渉、ものの五秒で即決。
実にノリがいい。
ここは遅れてなるか、とワタルが声を上げる。
「なあ、本当にD.B.の居所はわかるのか!」
「そりゃ嬢ちゃん次第だけどぉ」
「あ、ボクはリーファ。ハンドルはヒミツね!」
「それで、D.B.のヤロウの居所は、突き止められるのかよ!」
「へっへ〜ん。その辺、任せて欲しいもん。ボクの手に掛かれば、そんなのお安いご用だよ」
「よぉしっ! そういうことなら、オレも一枚噛ませてもらうぜ」
「え〜、わたしは頼んでないわよぉ。報酬の問題もあるし」
とジョルジオが渋ってみれば。
「カネなんか要らねぇ! その代わり、あのオッサンを叩きのめすのは、このオレだぜ!」
実に都合良い、あるいは、心強いお言葉。誰に都合が良くて誰に心強いかは敢えて言わないが。
「ん〜、そういうことなら、まあいいわ。よろしくね。わたしは、ジョルジオ・ベルルスコーニ」
「おう! オレはワタル! ヤマモト・ワタルだ!」
ワタルとの交渉、およそ十数秒。
時は金なりとは言うものの、ここまで即決過ぎるのも問題かもしれない。怜樹は、そう思いつつ目を点にしていた。
「じゃあ、そこのお二人は……」
別に居なくてもいいかもなぁ、と思いつつレイに視線を向ければ、レイは嘆息して、ごくあっさりと折れた。
「わかった、1000でいい。オレたちにも噛ませてくれ」
レイとしては、あまり危ない橋を渡りたくはないのだろう。かといって、ここで止めて止まるアオではないことも先刻承知のはずだ。
恐らくは、ジョルジオとレイの交渉が決裂しても、アオはジョルジオと行動を共にするだろう。
レイが金にこだわるのは、そういった事情を全てわかった上でのことだ。レイ個人としては関わりたくない危地に我侭で考えの甘い相棒に付き合って飛び込むために、報酬のため、と言い聞かせて自分の意見を曲げてくれるつもりなのだろう。
気恥ずかしくて面頭向かって礼は言わないが、アオは心の中でレイに手を合わせて感謝した。
ジョルジオとしても、とりあえず目標金額は確保できるのだから問題はない。盾が増えるのは、良いことであるし。
ワタルにとっての問題は、皆に先んじてD.B.を張り倒すことが出来るかどうかであったし、リーファに到ってはD.B.に近付きつつ面白いことに首を突っ込むことができそうなのだから、それだけで頬が緩むというもの。
実にスピーディかつ円満な業務契約の一場面である。
ただ、惜しむらくは。
「君たち、ここは病院だ……」
力なく呟きつつ、もう少し場所と場合をわきまえてもらいたい、と怜樹は思った。
そして、さっさと診察料を弾いて彼らには出ていってもらうことにしよう、と決意した。

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