戻る Episode3 "Befor a storm."
  Act3 "D.B. and a little girl."

適当なところまで走って、D.B.はトライクを停めた。いいかげん、子供を抱えた不安定な姿勢で走るのは疲れてきていたし、とりあえずのところ追っ手を捲くことも出来たようだったから。
それに、今にも泣き出しそうな顔でねめつけているクライノーワの視線が気にならないと言えば嘘になる。
「あっちゃ〜、こりゃヒデェ。俺の運が無ぇのか、あのワタルって坊やの腕がいいのか」
最初に確認したのは、トライクの被害状況だったが。
「誰……? どうするの?」
ふと気付くと、小脇に抱えたままのクライノーワが、気丈にも精一杯の虚勢を張りつつ可愛らしい詰問の声を上げていた。
「あ〜、どこから説明すっかな?」
ヘルメットを外し、右手で頭を掻きながら言って、D.B.は機械仕掛けの左手一本でクライノーワを抱え上げ、漏れ出した燃料が高そうな彼女の服に付着しないよう注意しつつタンクの上に乗せた。身長差から、丁度顔を突き合わせるような格好になる。
「まず、第一点だ。俺は、ただの人攫いじゃない。じゃあ何かってぇと、まあ、正義の人攫いってところだな」
どうにも違和感溢れる言い回しで、D.B.は切り出した。
「俺を雇ったのは、ミハイル父さんだ。覚えてるかい、クライノーワ?」
ミハイルという名を聞き、それまで震えつつD.B.を睨んでいたクライノーワの表情に、僅かながら動揺が走った。
ミハイル・ティリバシュ。それは、彼女の父の名。
もう随分長い間会っていない、優しいミハイル父さん。
5歳の頃、この街に移り住んで以来、一度も会えないでいた大好きな父さん。
思いがけず父の名を聞き、クライノーワは堪えていた涙が別の意味で溢れそうになる。
それでも、鼻をすするだけで何とか堪え、覚えているか、という問いに対して短く頷く。
D.B.は、それを見て安堵のため息をついた。
「は〜、よかったぜ。嬢ちゃんがミハイルのダンナのこと忘れてたら、話がややこしくなるわ、とんだ道化だわで、目も当てられねぇトコだったかんな」
この人は、何を言っているんだろう? 私がミハイル父さんのことを忘れるなんて、あるわけないのに。
いったい、この人は何者だろう?
クライノーワの疑問に気付いたのか、D.B.は軽く笑みを浮かべつつ自己紹介した。
「そうだ。俺はD.B.ってんだ。これ以上縮めようが無いから、特別他の呼ばれ方はしてない。ミハイル父さんとは、ちっとばかり知り合いでな」
本当は、ちょっとどころではないのだが、とりあえず子供にこれ以上ややこしい事情を説明しても無意味だと思い、D.B.は話題を変えた。
「で、だ。俺が嬢ちゃんを連れ出したのは、嬢ちゃんをミハイル父さんのトコへ連れてくためなんだな。ま、信じる信じないは嬢ちゃん次第だけど」
「本当!?」
クライノーワは、呆気にとられつつも即座に訊き返した。
ミハイル父さんに会える。
それが本当なら、どんなに素敵なことか。
マリア叔母さんのことが気にならないではないけれど、本当にミハイル父さんに会えるのなら構わない。叔母さんには、後で謝ればいいから。厳しいマリア叔母さんだから、凄く怒るかもしれないけれど、それでもいい。
泣き顔から一転、異常なまでに期待のこもった視線で見詰められ、D.B.は柔らかな苦笑を浮かべた。
――ああ、ミハイルのダンナ。何も心配することなんざなかったぜ。アンタ、心っからこの子に好かれてるよ。
そう思いつつも、あんまり期待されると、ちょっと困る。
何故ならば。
「あ〜、えっとな、もちろん本当なんだが、これがカンタンなことじゃねぇんだな。なんつーか、山あり谷ありのスリルとサスペンスでお腹いっぱい、てな感じのデンジャーな旅をしなきゃならんワケよ。見返りも、デカイっちゃデカイんだがね」
ミハイル・ティリバシュを取り巻く、ありきたりでいて複雑な政治的事情に思いを馳せ、ちょっと頭痛を覚えるD.B.。なんだって、あのダンナは、こう、もっと単純な生き方が出来んのだろうか?
自分のことを棚に上げてそう思っていると、クライノーワが身を乗り出してきた。
「行く。お父さんに会いに行く」
すっかりその気のお嬢ちゃんに、D.B.は思わず少し仰け反ってしまう。よほど、彼女の父親に対する思慕は深く大きなものらしい。
「ってさ、お嬢ちゃん? 俺が嘘ついてるかどうか、とか、確認しなくていいのかい?」
何故か子供に圧されタジタジといった調子で注意を喚起するD.B.。素直なのは結構だが、それも過ぎれば危険を呼び寄せる。早いうちに、その辺言い含めておかないと、余計なトラブルの元になりかねない。
クライノーワは、D.B.の言葉に夢から覚めたように渋面を作った。
「嘘、なの?」
今にも泣き出しそうだ。
D.B.は、意地っ張りで知られる彼としては異例の早さで白旗を揚げた。
どうも、俺は子供に弱いらしい。
そう思いつつ、D.B.はトライクの後部座席脇に備え付けてあるミニトランクから、液晶画面付きビデオディスクを取り出した。
「んにゃ。嘘はついてないぜ。ただ、せっかくダンナに用意してもらった証拠の品をフイにするのも何だなぁ、って思っただけさ」
言いつつ、ビデオディスクのスイッチを入れ、クライノーワに手渡した。
『私の可愛いクライ――』
小型スピーカーから、クライノーワにとっては久し振りに聞く、D.B.にとっては割とよく耳にする、少し甲高い男の声が流れ出す。
クライノーワは、安物の小さな液晶画面を食い入るように見詰めていた。
D.B.は、5分に及ぶビデオ映像が終わるまで黙って待ち、結局感極まって涙を流し始めたクライノーワから目を背けたままで、とても訊き辛そうに尋ねた。
「で、だな。話をまとめるぞ。俺としては、嬢ちゃんをミハイル父さんのところに連れて行かなきゃならない。ただ、ちょいと危険な旅になる。で、そこんトコ納得した上で、協力的だと助かるんだが……」
チラリ、と横目で見ると、クライノーワはしきりに頷いていた。
ため息をつき、今後契約書や履歴書に『苦手なもの』という欄があった場合、迷わず『子供』と書こうと決意しつつ、D.B.はクライノーワに手を差し出す。
「んじゃ、ちっと手荒な出会いになっちまったが、よろしく頼むぜ、嬢ちゃん」
クライノーワは、D.B.の生身の右手を握り返しつつ、ほんの少し違和感を感じた点に関して態度を改めてもらうようD.B.に要請した。
「うん。嬢ちゃん、って変。みんなクライって呼ぶから、そう呼んで」
苦笑を浮かべ、D.B.はその提案に同意した。
話がまとまったからには、さっさと物資補給に向かおう、などと思いながら。


ダウンタウンの小さな雑貨屋の軒先に、銃痕も真新しい武装トライク。これほど物騒かつ違和感あふれる光景も、そうあるものではないだろう。
とはいえ、いつまでも自分の店の前で突っ立っているわけにもいかない。光輝は、少しばかり警戒しつつ店の中へと歩を進めた。
そして彼女が店内で見出したのは、組み合わせの不思議さという点において店外の光景と大差ない二人連れの客の姿だった。
「あと、9パラとレミントンの223を1ケースずつな。ま、これはついでみたいなモンだから、無いなら無いで構わねぇけど」
店番兼ボディーガードのキッド相手に割と物騒な注文をしているのは、蒼いライダースーツに身を包んだ男だった。均整のとれた体つきだが背はさほど高くない。ほんの少し黄がかかった肌と彫りの浅い顔立ちからも、幾らか東洋の血が混じっているのだろうと推測できる。くすんだ金髪はくしゃくしゃで、物腰や言葉遣いから考えてもあまり上品な生まれ育ちではないようだ。そして、他の何より目が印象的な男だった。深く澄んだ蒼い瞳は、何かしら言いようの無い鋭さと冷たさ、そして深さを感じさせる。
この男だけなら、光輝の店の客としてはさして珍しくも無い。奇異だったのは、その男の傍らで所在なげに佇む小さな女の子である。
軽くウェーブがかかった、絹糸のようなプラチナブロンド。整った顔立ちは、恐らく彼女を実際の歳よりも大人びさせて見せるだろう。肌は良質のクリームをそのまま固めたように白くきめ細やかで、アクアマリン色の瞳は無垢という言葉を形にしたかのような光彩を湛えていた。服装は、一目見て仕立てのよい上等なものだと知れる、フリルのついたワンピース。装飾は控え目だが、相当値の張るものだろう。
光輝は自身の店をいかがわしいとは思っていないし相応に愛着も誇りも感じてはいたが、かといって上流階級向けに造られた御上品な専門店を気取るつもりも毛頭無い。この天使のような少女は、光輝の店にはいかにも不釣合いだ。
加えて、同伴している男は、どう贔屓目に見てもDランク市民といった按配。とてもではないが、常識的に考えてこの少女の縁者とは思い難い。
――何者ですの?
どうにも無視し得ない疑問を脳裏に浮かべていると、漸く光輝に気付いたキッドが助けを請うような視線を送ってきた。
キッドは、ボディーガードとしてはすこぶる優秀で非の打ち所の無い男だったが、それ以外のこととなるとどうにも要領が悪い。微かな苦笑を浮かべつつ、光輝はとりあえず男に声を掛けることにした。このライダースーツの男が何者か知るためにも、それが最も速くて確実な方法であろうから。
「いらっしゃいませ、御客様。ご入用のものはお決まりでしょうか?」
ゆったりとした足取りで歩み寄りつつ声を掛ければ、男は不意を打たれたような振りをして――恐らくは、振りだけだろう――光輝の方に振り向いた。
「っと、お前さんは?」
「当店の店主を務めております、水神宮・レオ・光輝ですわ。以後よしなに」
そう答え、にこやかに微笑む。生まれのおかげで自然と身に付いてしまった所作だが、所謂営業スマイルとしても応用が利く。それなりに顧客に対して好感を与え得るものと自負する微笑だ。
「そりゃ、どーも。モノに関しちゃ、今しがたこっちのあんちゃんに伝えたとこさ」
恐らくは、こちらも生まれ育ちと職業から来ているのであろう、少々ふざけ気味の不敵な笑みを浮かべつつ、男はキッドを親指で指す。キッドは、肩をすくめつつ今聞いたばかりの注文を並べ立てた。
「トライク用の燃料タンクが2つ、御二人用のCAM、それから9mmパラベラムとレミントンの223が1ケース」
随分と大口の買い物だ。ついでに、物騒でもある。
内心唖然としつつも、光輝は答えた。
「失礼ですが、戦争でもなさるおつもりですか? 申し訳ありませんが、当店ではそのような危険物を取り扱う場合、身分と使用目的を明確にして頂くようなっておりまして」
相手を見る限り身分も何もあったものではないというのは分かってはいたが、一応尋ねてみる。これもポリシーというやつだ。
男は、肩をすくめつつ天を仰いで、どう説明したものか、と考えあぐねている様子。だが、それも一瞬のことで、すぐに光輝に向き直り、ため息混じりに説明を始めた。
「あー、俺はD.B.ってんだ。職業は、まあ、トラブルシューターってヤツだな。使用目的って言われてもなぁ……別に、どこかを襲撃しようってぇワケじゃない。さしあたっては、このお嬢ちゃんをとある場所に運ぶためと、道中俺たちの身を守るためだな。守秘義務ってヤツでどこに行くかは言えねぇし、職業柄余ったモンをいつ何に使うかは断言できん。こんなトコでいいか?」
素性は、まあ予想した通り。目的は曖昧だが、それも職業上仕方の無いことは理解できる。
それもこれも、男――D.B.が素直に真実を語っているのなら、だが。
「まあ、よろしいですわ。」
光輝は、秀麗な顎を摘み少しだけ考えてから、D.B.を信用することにした。
正直、彼の言いようには不鮮明な点が多過ぎる。だが、その不鮮明さは嘘をついてはいないという証明でもある。
言えないことは、言えない。わからないことは、わからない。
実に正直で結構。
嘘をつくのなら、そのような物言いをしなくてもよいはずだ。
だから、D.B.を客として信用する。
そうなれば、早速ビジネスの話に頭を切り替えられるのが、光輝の聡明なところだった。
とりあえず、D.B.とのビジネスには些細な問題点がある。
光輝は、まずそのことを指摘した。
「ただ、その子のCAMとなりますと、調整が必要ですわね。Sサイズでも、大き過ぎるでしょう」
D.B.は、困ったような表情を浮かべつつも頷いて同意を示す。
「ま、子供用のCAMなんざ、俺も聞いたことないからな。あんましヒマはねぇけど、しょうがない」
D.B.の同意を得て、光輝はにっこりと微笑み掛けた。
但し、彼ではなく彼の連れに、だ。
「じゃあ、お嬢ちゃん。奥で寸法を採らせて頂けるかしら?」
腰を折り視点を所在なげに佇む少女と同じ高さまで下げて、彼女の顔を覗き込む。
見れば見るほど、生まれも育ちも良さそうなお嬢ちゃんだ。
ただ、注意深く観察すれば、その表情に若干の焦燥と疲労を見て取ることが出来た。
「あー、できれば俺から離してほしくないんだが。ある程度の目安で作っちゃもらえないのか?」
少し慌てた様子のD.B.に、光輝は微笑を浮かべたままピシャリと言葉を返す。
「わたくしの店から出す以上、中途半端な品などお渡しできませんわ。ご心配なさらずとも、この子には何も致しませんわよ?」
何か後ろ暗いところでもあるのか、と視線で問い掛ける。
D.B.は、本格的に困った顔で、深くため息をついた。


「お名前を教えていただけるかしら、お嬢ちゃん」
結局D.B.の抗議を押し切った光輝は、少女をバックヤードへ案内しながらそれとなく話を切り出した。
「クライノーワ」
少女は短くそう答え、それきりまた黙り込んでしまう。
「そう。それじゃクライノーワ、そこに立ってくださるかしら」
光輝の言葉に従い、無言で試着台の上に立つクライノーワ。
何が問題というわけでもなかったが、その振る舞いに光輝は違和感を覚えていた。
素直過ぎる。
この年頃の子供は、制御不可能なほどに無駄な元気に溢れていていいはず。
もちろん、中には物静かな子供もいるだろう。
だが、クライノーワの所作はあまりに生気に欠け、死人か人形のような印象を与える。
「ねえ、クライノーワ」
慣れた手つきで採寸しつつ、光輝はごく小さな声で訊く。
「D.B.とは、どういった御関係なのかしら?」
D.B.を、客としては信用した。
しかし、それは彼を人間的に信頼できるかという問題とは、必ずしも等価ではない。
「わからない」
僅かに考える素振りをしてから、クライノーワはそう答える。
少しばかり曖昧に過ぎたか、と、光輝は設問を変えた。
「それじゃ、何故D.B.と一緒にいるのかしら?」
クライノーワは、今度は迷うことなく簡潔に答える。
「連れて来られたの」
やはりか。
光輝は、クライノーワの返答に驚きを感じなかった。
普通に考えれば、D.B.とクライノーワでは住む世界が違う。彼らが親密な仲であるとは、とても思えない。
となれば、誘拐の類か、さもなくばクライノーワの家にトラブルシューターなどに大切な娘を預けねばならない何らかの事情が発生したか。前者であれば、甚だ問題だ。幾らなんでも、誘拐幇助などという真似は避けたい。
「どうして逃げないの? もし、D.B.が怖くて逃げられないのなら、少しくらいわたくしも力を貸してあげられますわ」
少々先走り気味の光輝の言葉に、クライノーワは微かにかぶりを振り、小さな声で言った。
「連れていってもらうの」
連れていってもらう?
ということは、単なる誘拐の類ではないということか?
こうなると、別の意味で興味をひかれる。
いったい、この少女クライノーワは何者なのか。
「どこに?」
「お父さんのところ」
「お父さん?」
「ミハイル父さん。先生なの」
矢継ぎ早に尋ねる光輝に、クライノーワは簡潔に即答する。
クライノーワの言葉を信じるなら、彼女はD.B.に父親の許まで護衛輸送してもらうということか。有り得ない話ではない。
しかし、である。
ならば、最初の『何故D.B.と共にいるのか』という問いに対する答えが気になる。
連れてこられた、と言うからには、クライノーワの同意を得てのことではあるまい。その保護者の同意すら、得ているかどうか怪しいものだ。結果として、彼女が現状を受け入れ納得しているとしても。
そして、トラブルシューターD.B.が彼女に対してそこまでのことをしなければならない、その理由にも合点がいかない。ただの良家の子弟が、真っ当な護衛ではなく腕は良いが素行に問題のある場合が多いトラブルシューターに預けられるようなことがあろうか。光輝自身の経験に照らし合わせても、尋常の事態では内容に思える。
「クライノーワ」
問題を解き明かすべく、光輝は静かに尋ねた。
「あなたのおうちの名前を教えてくれないかしら?」
「ティリバシュ。クライノーワ・ティリバシュ」
光輝は、そう、と曖昧な笑みを浮かべて応じ、ティリバシュという姓に心当たりがないか自身の知識を検索する。
ミハイル――よくあるロシア系の名だ。
ミハイル・ティリバシュ――誰か、いなかったか?
寸法を測る素振りをしつつ、しばし考えを巡らせて、光輝は、あっ、と短い驚きを漏らした。
不思議そうな顔で光輝を見るクライノーワに愛想笑いを見せつつ、光輝は内心少なからず動揺した。
ミハイル・ティリバシュ。
サイバネスティック工学の分野では、それなりに名を知られた人物だ。
確か、ブロッサム・シティとは険悪な仲の、オリンピア・シティの人物だと記憶しているが。
――サイバネスティック工学博士の娘、か。
穿った見解かもしれないが、クライノーワがおかれている現状は、彼女の父親とその研究成果に原因があるのではないか?
少なくとも、そう考えれば何とか説明がつく。
そうなると、問題はD.B.が彼女の味方か否かということになるが――
「これをお持ちなさい、クライノーワ」
光輝は周囲を見渡し、目に入った中で最も適切と思われるプレゼントをクライノーワに手渡した。
ジュニアコルト。好事家のコレクション用に揃えていた骨董品だが、もちろん完動品だ。
25ACPを使用した小型拳銃でコンシール性は高い。威力は少々心許無いが、用途とクライノーワの体格を考えれば妥当な選択だろう。
「何?」
光輝の意図を掴みかねてか、目を瞬かせるクライノーワ。
おっかなびっくりという按配の彼女の様子に、光輝の顔に知らず微笑が浮かぶ。
「転ばぬ先の杖、というところかしら」
悪戯っぽくウインクをして、そう答える。
「杖? でも、これ拳銃……」
どうやら、クライノーワの知らない諺だったらしい。
「……比喩的な表現ですわ」
ひとつ咳払いをして、光輝は言い含める。
「いい、クライノーワ? これを持っていることは、D.B.に教えちゃ駄目よ」
「何で?」
心底不思議そうに問い返すクライノーワ。人を疑うことを知らない目だ。
育ちが良すぎるのも考えものだ、などと思いつつ、光輝はクライノーワの疑問に答える代りに、少し考えてから諭すように言った。
「もし、D.B.があなたとの約束を破るようなことがあったら、迷わずこれを使いなさい。そうしないと、あなたのお父さんが困ることになるかもしれませんわ」
――D.B.が相手では、蟷螂の斧かもしれませんわね。
その一言は胸の内に止め、光輝は手早くこの銃の使い方を、撃発以外は実演して見せながら説明した。
クライノーワが――幾らか納得しかねる表情ではあったが――その贈り物をポケットに忍ばせるのを見届け、光輝は溜息をついた。
まったく、このように無垢な子供に人殺しの道具を持たせねばならないとは、何と狂った世界、何と歪んだ住人であることか、と。


D.B.とクライノーワを送り出し、光輝は頬杖をついて思案していた。
本当に、いったい何者なのだろうか、彼らは。
トラブルシューター、D.B.。
金払いは、非常に良かった。十万ドルに及ばんとする大金を、まだ引渡していないCAMの分までまとめて全額を即金で払っていった。
人物的にも、さほど悪人というわけでもなさそうだ。クライノーワは、懐いてはいなかったがそれほどD.B.を恐れている風ではなかったし、彼のクライノーワに対する接し方にも乱雑でデリカシーに欠けてはいるが悪意は感じられなかった。
クライノーワ。彼女の言と自身の知識を信じるならば、サイボーグ工学の博士ミハイルの娘。
年頃からすれば、おとなし過ぎる――はっきり言ってしまえば、暗い――印象の少女だ。それは生来の性格なのかもしれないし、ある種の抑圧が生んだ習性なのかもしれない。いずれにせよ、こちらにも悪意は見られない。
詰まるところ、彼ら自身に不審な点はあまりない。二人の関係が少しばかりギクシャクしているのは、お互いに相手との関係に慣れていないだけなのではないか、とも思う。
となれば、やはり問題はミハイル・ティリバシュ博士か。いったい、彼はいかなる研究成果をあげたのか。
「お嬢様」
物思いに耽っているところに、キッドが控えめに声を掛けてきた。
「何かしら?」
彼のことだ、無駄話の類ではあるまい。
そう思いつつ問い返せば、キッドは備え付けの電話の無線受話器を差し出しつつ答えた。
「旦那様から、お電話が入っていますが……」
「そう。きっと、あの件ですわね」
これが常ならば、また見合いだ何だという話かもしれない、と少々警戒するところだが、今回ばかりは心当たりがある。つい先日、実家に――執事を通して、という辺りが幾らか光輝の父に対する警戒心を示しているのだが――依頼していた件だろう。
「お父様、お元気そうなお声で何よりですわ。……はい?  嫌ですわね、便り無きは良き便り、と申しますでしょう?」
永く見合い話を断り続けている――この辺りが親元を離れている最大の原因だと、いいかげん気が付いて欲しいものだが――ことに対する苦言を軽く受け流し、光輝は本題に入るよう父を促した。
「ええ。こちらも、少々物騒になってきましたから。とりあえず、避難の準備だけは整えておきたいと思いまして。備えあれば憂い無し。何事も用心するにこしたことはありませんわ」
とりあえず、これで用件は終わり。彼女の要望が一通り叶えられた、それがわかれば充分である。
とはいえ、結構な時間実家を離れ父を不安がらせているという自覚もある。何事か、と不安そうな顔をしているキッドを眺めつつ、光輝は父親との他愛のない会話をしばし楽しんだ。決して父が嫌いというわけではないし、事情を知りたくてうずうずしているキッドの落ち着きのない所作を眺めているのも中々に楽しかったから。
ややあって受話器を置き、光輝は無言で説明を求めるキッドに、ごく軽い調子で告げた。
「輸送車の手配が整いましたわ。状況次第では、屋移りするかもしれませんから、そのつもりでいてくださいね」
近頃のブロッサム・シティの治安に一方ならぬ不安を抱いていたキッドはその言葉に、たいそうな喜びを示した。
さすがに、早々と荷造りを始めようとしたときには、静かに、しかし酷く恐ろしい調子で、光輝にたしなめられたのだが。
だが、光輝はこのときキッドを止めたことを、すぐに悔やむことになった。

  Prev Next