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虚無で引き合うもの

暗闇、では無いと思う。
なぜなら、俺の目は確かに周囲を捉えることができていたから。
ただ、そこには何も無い。
目は見えているのに、視覚が捉えるべき対象物が何も無いのだ。
地平まで続く草原なら、空と大地を目にすることができるだろう。
紺碧の海に身を委ねているなら、海面の煌きを感じることもあるだろう。
――だが、ここには何も無い。
そこに空間が開けており、何かがあればこの目で見ることができるという確信がある。
にもかかわらず、そこには何も無いから何一つ捉えることができない。
これは、暗闇ではない。
虚無だ。
ここが、上岡の言っていた『世界』なのだろうか?
だとすれば、あいつのボキャブラリーは新聞部にあるまじき貧弱さだと思わざるを得ない。
どうでもいいことを考えながら、酷く不安な世界の中で、俺はある種の安堵を感じていた。
「一人、か。悪くない」
呟いてみる。
そうだ。
ここには、誰の姿も無い。
もちろん、天羽の影も。
ということは、俺は少なくともあの瞬間、上手く天羽をこの虚無から引き離すことに成功したということだろう。
それで、彼女の何が変わるというわけでもないだろうが、とりあえず幾ばくかの時間を稼ぐことはできたと信じよう。
その時間を、あいつらは上手く使ってくれるだろうか。
特に上岡には、あいつが本当に世界を分かつような特別な存在だというのなら、是非とも天羽の想いくらい何とかしてもらいたい。
それに、天羽――あまりに生真面目過ぎる、強さとそれ故の寂しさを抱いた女。
その強さを、少しは砕いて欲しい。
自分を強くすることで何もかも丸く収まるだなんて、そんな甘ったれたヒロイズムは糞喰らえだ。
「馬鹿げた嫉妬、か」
肩をすくめて、俺はため息をついた。
「天羽……お前は、もっと怒ってもいい。馬鹿げているのは、上岡達の方だ」
誰に届くはずも無い繰言を、呟かずにはいられなかった。
百歩譲って、上岡たちが特別な人間であると認めるとしよう。
恐らくは悪意など無く、むしろ善意に満ちているのだとしよう。
だとしても、天羽がそれに振り回されるというのは、納得がいかない。
それを天羽自身が望んでいたとしても、だ。
……わかっている。
理屈にもなっていない。
俺の身勝手な想いだ。
冷静に考えれば、上岡たちの行動は正しいのだろう。
少なくとも、結論としては。
それでも、散々仲間面しおいて、最後の最後で何も告げずにサヨウナラでは、あまりにいたたまれない。
それは、上岡たちの甘えと言うべきでなはいか?
そのために、天羽が自分を抑え、無条件の理解を強いられるなど、俺にはどうしても納得できないのだ。
ああ、そうとも。
今更惚けたってしょうがない。
惚れた女が泣かされて、納得できる男がどこにいる?

俺が、そんな埒も無い思索に意識を委ねていることができたのも、それほど長い時間ではなかった。
気がつけば、何も存在しないこの虚無の中に、ひとつだけ確かな存在を認識することができた。
相変わらず、この目は何も捉えることができない。
ただ、何らかの存在を確かに感じていた。
それは、そう、今の俺と似たようなもの――意識、あるいは、魂とでも言おうか。
実体を感じられない、しかしそこにあるもの。
そして、俺は抗う術も無く「それ」に引き寄せられていることに気付く。
――引力というものの存在を思い起こす。
物は、ただそこにあるだけで力を持ち、互いに引きつけ合うのだ。
では、魂は?
それが、確かに存在する『もの』だとしたら?
概念は、やはり引き合うのか?
「どう、なるんだ?」
考える間は、あまりに少なかった。
ほとんど何も断ずることができぬまま、俺は強い衝撃を感じた。
意識が、混濁する。
いや、明瞭になるのか?
俺は、いったい――

そして、俺たちは、ひとつに、なった。