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不意に歪む日常

奇妙な疲れを背負ったまま、渡り廊下をトボトボ歩く。
部室直行コースにするか、草壁ラボ寄り道コースにするか、と、どうでもいいことを考えていると――
「先輩!」
呼び止める鋭い声に振り向けば、息を切らせて駆け寄る天羽が視界に飛び込んできた。
先刻の川鍋との会話があった上に不意打ち気味の邂逅で、俺は少しばかり動転する。
一方で、彼女の顔を見ることが出来て喜んでいる自分がいることも、まるで他人事のようにではあるが、把握していた。
いずれにせよ、意識しないようにと心掛けても、俺は少々構えてしまう。
もっとも、それは俺の方にばかり原因があったわけじゃない。
彼女は、普段のクールな表情からは想像できないような、切羽詰った雰囲気だったのだから。
「よう。何を慌ててるんだ?」
努めて軽い口調で答えたその言葉が耳に入っているのかいないのか、天羽は詰問するような視線を向けて尋ねてきた。
「百合と上岡君を見ませんでしたか?」
「いや、見てないが」
「そうですか……」
落胆を隠そうともしない天羽の様子を、俺はさすがに怪訝に思う。
「どうした? 何かあったのか?」
「い、いえ! 何でも」
慌てて、不器用な愛想笑いを顔に張り付かせる天羽。
本人が理解しているのかどうかはわからない――私見だが、恐らく自分でも気付いているのではないか?――が、その態度は怪しさをいや増すだけだ。
溜息ひとつついて、俺は言った。
「ちょうど、憂さ晴らしというか、気晴らしというか、ちょいと寄り道でもしたいと思ってたところだ。連中を探してるんなら、俺も手伝うが?」
俺としては、何気ない提案のつもりだったのだが。
「いえ、結構です」
天羽は、えらく真剣な表情で――というより、睨み付けるような顔つきで、キッパリと拒否した。
そればかりか、彼女は命令でもするかのような強い口調で付け加える。
「それより、早く帰った方がいいですよ。寄り道なんかしてないで」
これは、拒否どころか、拒絶だ。
チクリ、と、胸が痛む。
まったく、恋する乙女でもあるまいに。
知らず感情が顔に出ていたのだろうか、天羽はさすがに申し訳なさそうに言う。
「すみません。別に、他意があって言ってるわけじゃないんです。ただ……」
「ただ?」
言い淀む天羽を促してみるが、彼女は軽くかぶりを振った。
「何でもありません。先輩には、関係ないことですし」
これまた、随分な言い様だ。
俺は、少しばかりの落胆と共に奇妙な苛立ちを感じていた。
ここ数日悩まされることが多かった苛立ち――そう、それは先日まで星原に対して抱いていたのと同質のものだ。
ひとつ大きく違う点は、星原に対してと、天羽に対してと、俺の抱いている感情がまるで別物だということ。
認めたくは無いが、俺は酷く消沈している自分に気付かざるを得なかった。
「そう、か。じゃ、お言葉に従うとするか」
出来るだけ感情を殺すよう意識しつつ答え、俺は肩をすくめて踵を返す。
もう、気晴らしに何かしようという意思も起きない。天羽の言う通り、さっさと帰って引きこもった方がよさそうだ。
「はい。それじゃ――」
背中越しに軽く手を振って別れを告げる俺にかけたと思われる言葉は、途中で息を呑む音に変わった。
何事か、と思い、俺はうつむき加減だった顔を上げる。
そして、天羽が言葉を失った理由を知った。
「!」
俺だって、それこそ言葉も無い。
俺の目の前、前方1メートルか2メートルといったところだろうか、そこに、信じがたいものが浮いていた。
夕日を浴びてキラキラと輝く、紫がかった小さな装飾品。
誰が持つわけでもなく、何に支えられるわけでもなく、それはただ浮いていた。
「あれは……!」
天羽が叫ぶのとほぼ同時に、渡り廊下の向こう側に息を切らせた上岡と星原が姿を現す。
あいつらも、さすがにこの異常な現象に驚きを隠せない――かと思いきや、上岡は敵を見るような目でそれを凝視し、星原はといえば緊張こそ隠せていないものの取り乱すことも無くそれをジッと見ている。
存外、肝の据わったやつらだな。
どうでもいい感想を思い浮かべつつも、俺はやはりその光景に意識の大半を奪われていた。
「――七角ペンダント……」
自分の呟きが、酷く遠く聞こえる。