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曖昧な絆

「どうぞ」
扉の向こうから、入室を促す声が聞こえた。
俺は、サッサと扉を開けて中に入る。本格的な冬にはまだ遠いが、朝の廊下にあまり長居したくない程度には冷え込んできているからだ。
室内は、その主の意向にしたがって既に暖房が入れられている。当然自分自身のためにそうしているのだろうが、そのお相伴にあずかる身としては最大限の敬意を払って挨拶してしまうのもいたしかたないだろう。
「おはようございます。草壁先生」
「なんだ、君かい?一本損したな」
気が抜けたような声でそう言うのは、この理化準備室のヌシである草壁湊教諭。学内に有名な草壁コーヒーの香りに紛れて微かに漂うヤニの匂いに、俺は苦笑する。
「今日も元気だ煙草がうまい、ですか?」
「別に美味くはないがね。おはよう。それで、何の用だい?」
特に意味もないのだが、相手が草壁先生ということもあって、俺はわざわざおどけたポーズを作ってみせた。
「用がなきゃ来ちゃいけないみたいな口振りですね」
「いけなくはないが、普通は来ないものさ。君たちのような年頃の時は、特にね」
さすがは草壁先生。切り返しが冷静だ。
俺は、こういう草壁先生との言葉遊びのような会話が大好きだった。
俺が入学した当初、草壁先生がここに赴任して間も無い頃、物理の授業を丸々二時間潰しての大議論――次元の捉え方と異次元に関する考察――をやらかして以来、教師と生徒というよりは理路整然とした師匠と口の悪い不肖の弟子という塩梅の関係が続いている。生憎と俺が文系に進んだ関係上授業で接する機会は少なくなってはいたが、俺にしてみれば気がね無く接することの出来るほぼ唯一の教師であることに変わりはない。
「で、用件は?」
重ねて問う草壁先生に、俺は軽く笑って話を切り出した。
「いや、大した用事じゃないんですけどね。ちょっとパソコンのドライバをコピーさせてもらいたいと」
「それは構わないが。壊したのかい?」
「人聞きが悪いですね。壊したんじゃなくて壊れたんですよ」
「妖怪変化じゃあるまいし、パソコンが勝手に壊れるものかね。どこかに原因があるはずだろう」
「まあ、その原因についてはメーカーか新聞部に問い合わせてください。俺がやってるのは復旧作業だけです」
ふふ、と笑って、彼女は煙草をくわえる。
何と言うか、大人の仕草だ。
「つまり、受験が押し迫る状況にありながら、人の世話を焼いてるというわけか。余裕だな」
「諦念の方かもしれないですけどね。まあ、パソコンいじくってたぐらいで落ちるようなら、端っから受かりゃしませんよ」
苦笑混じりにそう答える俺を可笑しそうに眺めつつ、草壁先生は煙草に火をつけた。
毎度のことだが、なにもガスバーナー用に常備してあるマッチを使うこともないだろう、という気がしないでもない。
一息分の紫煙を吐き出してから、彼女は少々斜に構えたような微笑を浮かべる。
「そりゃ道理かもしれないが。教師として、一応は釘をさしておかないとな」
「できれば、川鍋のヤツにも刺しておいてください。」
「なるほど、そのセンから来た作業と言うわけか。機会があれば、そうしよう」
少々ヒネた、しかしそれでいて柔らかな微笑を浮かべたまま、草壁先生はそう答えてシャーレの灰皿に灰を落とす。
それから、フフッ、と失笑じみた息を漏らして言葉を継いだ。
「しかし、君も義理堅い人間だな。わざわざ自分で作業をしなくても、手順だけ教えて川鍋君に作業させればいいだろうに」
「相手が川鍋ならそうしますけどね」
おどけた調子で、俺は応じる。
「パソコンのイロハも知らん下級生相手じゃ、そうホイホイ放り出すわけにもいかんでしょう」
「下級生というと、上岡君や天羽君のことか」
「御存知なんで?」
俺は、その自分の言葉に幾らか驚きが混じっているのを感じた。
草壁先生は、一種独特な女生徒ウケはあるが、あまり生徒と親交のあるタイプの人じゃない。煙たがられるようなことは無いが、どちらかといえばとっつきにくい印象を与える人だ。まして、彼女はクラス担任を受け持っているわけでもない。
意外なところで意外な人から知り合いの名が出ると、さすがに少しは驚いてしまう。
「まあ、少しはな。取材と称しては、色々と探りに来るからな、彼らは」
苦笑混じりにそう言ってから、草壁先生はふと気付いたように続ける。
「しかし、意外だな。上岡君はともかく、天羽君あたりは基本的に機用だし、そういうのは得意そうなのにな」
「そうなんですか?」
訊き返す俺に、草壁先生はまたまた意外そうな顔で更に訊き返す。
「なんだ、知り合いじゃ無いのかい?」
「知り合いといえば知り合いですが」
微妙に唇を歪めながら、俺は答えた。
「知り合って三日ほどですがね」
「そういうことか」
納得の表情で肩をすくめる草壁先生。
「しかし、聡明そうだったろう、彼女?」
これは珍しい。
あの草壁先生から、他人の能力を評するような言葉が出てくるなんて。
「まあ、賢そうでしたがね」
実際、とても賢いと思う。
「頭の良し悪しとパソコンのスキルとは、関係無いでしょう。まして、アプリを使いこなせるかどうかとパソコンの仕組を知っているかどうかは、また別問題ですよ」
「君らしい見解だな」
苦笑を噛み殺しつつそう返して、草壁先生はごく軽い調子で付け加えた。
「とはいえ、なんだな。ずいぶんとまた、曖昧な絆のために働いているもんだ」
「そう、ですかね……」
曖昧な絆、か。
実際には、絆という言葉を使うほどの関係でもない。俺に天羽との関わりは、その程度の浅薄なものだ。
「ん?それとも、天羽君に惚れでもしたか?」
俺の声に歯切れの悪さを感じ取ったのか、草壁先生がニヤリと笑ってからかって来た。
俺は肩をすくめて答える。
「めっそうもない」
芝居がかった口調でそう応えてしまう、自分が少しだけ情けなかった。