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記憶、語られず

「それじゃ、俺は帰るけど」
そう言って席を立った俺に、天羽は軽く頭を下げた。
「はい。お疲れ様でした」
その口振りから察するに、彼女はまだ少しここに残るつもりのようだ。
下校なり一緒にと誘おうかとも思ったが、そうするだけの理由もない。
「ああ、それじゃ」
結局、俺は軽く手を上げて別れを告げた。
新聞部を後にして廊下に出る。
と、ちょうど隣にある図書室から上岡たちが姿を現したところだった。
こちらに気付いたらしい星原が、ゆったりと会釈をする。
その動作で上岡たちもこちらに気付き、軽い挨拶の会釈をしてきた。。
「よう。そっちも終了かい?」
軽くかけた言葉に、上岡が答える。
「ええ。後は、記事に起こすだけです。先輩は?」
「まあ、OS入れ終わったところだ。環境周りとかソフトとかは、明日やってやる」
「そうですか。すみません、わざわざ」
その会話に割り込むように、東由利と井之上が退去の意を述べる。
「じゃ、進君、私たちはこれで」
「ま、せっかく協力したんだから、せいぜいカッコよく書いてくれよな」
苦笑いを浮かべ、上岡は手を振って答える。
「努力はするよ。今日はありがとう」
「何、俺とお前の仲だ、気にすんな」
大仰にそう言う井之上と苦笑を浮かべ続ける上岡を見て、俺は何となく俺自身と川鍋の関係を思い起こす。
外から見れば、俺たちもこういう風に映っているんだろうか?
「それじゃ!」
東由利が元気よくそう言って、井之上を引っ張っていった。
それを見送ってから、俺も3年の昇降口へ向かおうと踵を返す。
「んじゃ、俺もこの辺で」
「あの……」
立ち去ろうとした俺の背に、星原から声がかけられた。
「少し、よろしいですか?」
「ん?俺に何か?」
星原に呼びとめられるような理由はないはずだが。
そう思いつつ振り向くと、上岡も怪訝そうな視線を星原に送っていた。
「星原さん?」
何か問いたげに声をかける上岡に、星原は柔らかな視線を返しつつ言う。
「進さん。碧ちゃんと面割の打ち合せは?」
その視線と言葉になにか悟るところでもあったのか、上岡は素直にうなずく。実によく出来た彼氏だ。
「うん、そうだね。それじゃ、少し話してくるよ」
そう言い残し、上岡は新聞部の部室へ消えた。
後には、俺と星原が残される。
どうにも、息苦しい展開だ。
正直言って、俺は星原に天羽以上のとっつきにくさというものを感じていた。なぜ、と問われれば、さて、と疑問符を浮かべるしかないのだが、星原には何か近寄り難い雰囲気――天羽のそれとは反対に、浮世離れしたものだが――というものがある。理屈抜きに、星原は俺が苦手とするタイプの女の子だった。
とはいえ、無為に時間を過ごしても進展がない。
溜息混じりに、俺は星原に尋ねる。
「で、俺に何か用なのかい?」
彼女は、迷うように一度目を伏せてから、真剣な面持ちでしっかりとこちらを見つめて口を開いた。
「はい。お訊きしたいことが、少し」
「まあ、答えられることなら答えるが」
「それでは」
少々ふざけた調子の俺の言葉に、星原は至極真面目な様子で質問を繰り出してきた。
「碧ちゃんは、少し無理をしている様子ではありませんでしたか?」
単刀直入かつ、あまり触れられたくない問いに、俺は少々言葉に詰まる。
「さあな……俺は彼女と出会ってほんの二日だぜ?彼女に違和感を感じたとしても、それが彼女の特徴なのか、常に無い様子なのか、それすらもわかりようがない」
「先輩がそう感じたのなら、それが真実だと思います」
星原の言いように、俺ははぐらかすように肩をすくめた。
「ずいぶんといいかげんな判断だな。俺と天羽は、僅かな時間に少しの言葉を交わしただけだぞ?」
だが、星原は俺の様子などお構いなしに、確信を込めて視線と言葉を返す。
「十分ではないかもしれません。誤解があるかもしれません。しかし、先輩が感じたことに偽りはないと思います。言葉は心を映す鏡ですから」
やれやれ、と溜息を吐き、俺は星原に言う。
「言いたいことが、わからんな。俺には心理学の心得は無いし、少々の会話で相手のことがわかるほど世故長けてもいないんだ」
「すみません。わかりにくい言い方だと、私も思います。ですが――」
詫びつつも、星原は持論を曲げるつもりは無いようだ。
「俺に何を期待しているのかはわからんが」
俺は、星原の言葉を遮った。
彼女が意思を曲げない以上、俺がとれるリアクションは限られている。
突き放すか、観念するか、だ。
「少しばかり、普通ではないという印象は受ける。その違和感の原因については、皆目見当がつかない。こういう答えでいいか?」
結局のところ、俺はそう答えていた。
星原は、その言葉に、コクン、と小さくうなずく。
その様子には、納得した、あるいは満足した、というよりは、ひとつ事実を確認した、という程度のものしか感じられない。
案の定、星原は更なる質問を投げかけてきた。
「では、先輩はどう思われましたか?」
「どうもこうも、今言った通りだが」
肩をすくめる俺に、星原は小さくかぶりを振る。上品というべきか、彼女の動きはひとつひとつがやけに小さい。
「碧ちゃんのことではありません。先輩自身のことです」
「もう少し、噛み砕いて言ってくれ。君の言葉は、漠然としすぎている」
「そうですか……」
一瞬、微かに失望の色を浮かべて、星原は目を伏せる。だが、次の瞬間には俺を見据えて言葉を継いだ。
「私の質問が漠然としているように聞こえるのは、恐らく先輩の心が漠然としているからです。先輩自身、決めかねていることや、自覚できていない部分があるからだと思います」
その言いように、俺は皮肉げに唇を歪めて応じる。さすがに、不快感を隠すことができない。
「ずいぶんな言いようだな。まるで、何もかも俺が悪いみたいに聞こえるじゃないか」
「そういうわけでは……」
ずいぶんキツイ言い方になってしまったのか、彼女は心底辛そうに表情を歪めてうつむく。ある意味で、それは星原が非常に真摯な気持ちで俺に語りかけているということを示すものだ。そう思えば、無下に扱うこともできない。
だが、真摯に語っているということと、その内容の真偽正誤には直接的な結びつきはないはずだ。俺にしてみれば、星原とは別の意見がある。
「まあ、仮に君の質問を理解できない原因が俺の無理解にあったとしよう。でもな、それならそれで、こういう考えも成り立つんじゃないのか――俺には情報が不足している、知らないことが多すぎる――実際、俺は天羽のことをよくは知らない。例えば、川鍋が相手なら大抵のことは言われなくても分かる。ヤツが何を考えているのか、次に何をするのか。俺は川鍋がどんな経験をして、そこでどんな選択をしてきたか知っているからだ。だが、天羽のことは分からない。彼女がどんな経験をして、どんな選択をしてきたのか、俺はまったくと言っていいほど知らない。――以心伝心を期待できるような間柄じゃないってことだ。天羽か、彼女にごく近しい誰かが語らない以上、俺は何も理解できなくて当然だ」
一気にそこまで喋って、俺は一息おいた。
続く言葉を予期しているかのように身構えている星原に、静かに問いかける。
「教えてくれないか?君が知りたいことがあるのなら、まず、君が知っていることを」
天羽が気がかりであることは、事実だ。その点に関して、はぐらかすのはやめるとしよう。
一方で、情報が足りないことも事実だ。おかげで、天羽にどう接してよいものか、俺はそれすらも決めかねている。
彼女と親しく接している星原であれば、俺が天羽から感じる違和感に関して、その原因を知っているか、あるいは何かしらヒントなり持っているかもしれない。それを知ることができれば。
だが、星原が発した言葉は、俺の期待を裏切るものだった。
「すみません。それを語ることは、できません」
「できない?」
知らない、ではなく、語れない?
俺を拒絶するにも等しい言いようではないか。
確かに、俺と星原――星原たち、と言ったほうが適切か――は、出会って間もない。言えることと言えないことはあるだろう。
だが、そもそも俺に彼女たちのプライベートな領域の話を持ち掛けてきたのは星原ではないか。その挙げ句この扱いでは、俺でなくとも不機嫌になろうというものだ。
「だったら、俺にもこれ以上話せることはないだろうな」
そう突き放した俺に向かって、星原は何度か何か言いたげに口を開きかけたが、結局思い直したのか、小さなため息をついてコクリとうなずいた。
「わかりました。ですが、よろしければ一つだけ、先輩の言葉で碧ちゃんに伝えて頂けませんか?」
「お断りだ」
星原の言葉に、俺はそう即答する。ついつい意固地になってしまうのは、稚気というものだろうか。
だが、星原はひるまず続ける。
「焦ることはないのだと。怯えることはないのだと。独りではないのだと。それを、伝えて頂きたいんです」
「一つと言いつつ一つじゃないな。それ以前に、俺は、お断りだ、と言った」
「言葉が持つものは、記号的な意味合いだけではありません。今私が言ったことは、全て一つのことなんです。先輩のおっしゃった言葉も、ただ単なる拒絶ではないはずです」
「それでも、俺が君の提案を蹴ったことに変わりはない」
不毛な会話だ。
俺は、これ以上気分を害さないうちに退散することにした。
「伝えたいことがあるのなら、勝手に伝えればいいだろう。俺には、その代行を買って出るつもりはない」
そう言い捨てて踵を返す。
それでもなお、星原は俺の背に向けて語りかけてきた。
「私では伝えられないことです。もう二度と力を使わないと誓った、今の私では。先輩にしかそれができないわけではありません。しかし、先輩にはそれができるんです」
その言葉から逃れるように、階段の方へ曲がる。
「早く気付いて……そして、向き合ってください」
最後に聞こえたのは、諭すようなその台詞だった。