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呼集

日が改まる。
僕は、昨夜の重い空気を引きずったまま校門をくぐった。
道すがら一緒になった級友との会話も上の空で、生返事を返しつつ機械的に足を動かす。
そんな調子だったから、肩を掴まれるまで呼ばれているのに気付かなかった。
「もう。どうしたの? さっきから呼んでるでしょう?」
目の前には、不満げに眦を吊り上げるエリザさん。
「え? あっ、おはようございます、エリザさん」
口にしてから、まずい、と思った。
他に人がいない場所でならともかく、朝の校庭で、しかも級友が隣にいるのに、教諭にして理事長代理である人をファーストネームで呼ぶのはよくないだろう。
僕は、慌てて言い直した。
「あっ、と、何かご用ですか? ノインテーター先生」
エリザさんは、公式な場では理事長代理と呼ばれるよりも先生と呼ばれるほうを好む。手に確かな職を持つ大人の矜持なのか、単に偉そうな肩書きが嫌いなのかはわからないけれど。
ともかく、思わずプライベートな呼び方をしてしまった失敗を補うためにも、ここは少々彼女の趣向に合わせておいたほうが無難だろう。
もっとも、そんな打算なんかとっくにお見通しのようで、エリザさんは苦笑を浮かべてあきれたように言った。
「取り繕わなくてもいいわよ。お友達なら、とっくに行っちゃったから」
またもや慌てて、僕は周囲を確認する。
僕たちは、登校する中等部の生徒の流れからは少し離れた場所に立っていた。エリザさんの言う通り、一緒に登校してきたはずの級友の姿はどこにもない。
「あれ? いつの間に?」
本気で驚く僕の様子に、エリザさんは苦しそうに笑いを噛み殺す。
「まったく……随分悩んでるみたいね?」
エリザさんの言葉は、恐らく昨日のトリスメギストスに関する話題を念頭に置いてのことだろう。
それもあながち無関係ではないけれど、今現在僕の胸中を占めている問題とは少々ベクトルが違った。
真面目に大問題に取り組んでいると思われるのも心苦しいので、僕は一応彼女の誤解を解くべく努力する。
「えっと、たぶん、エリザさんの考えてるような悩みではないですよ。なんて言うか、その、もっと泥臭い悩みなんで」
しどろもどろに説明する僕を、エリザさんは何もかも見抜いているような、鋭い、それでいて優しい視線で眺め、柔らかに微笑んだ。
「いいんじゃない? 変にいい子振るよりは、ずっと素晴らしいと思うわよ」
うぅん、いったいどこまで悟られているのやら。
ひょっとして、別の意味で誤解されていたりして。
念のためにもう少し解説を加えておこうかと口を開きかけたところで、エリザさんは不意に笑みを消した真面目な顔になり、機先を制して言った。
「でも、ごめんなさい。悪いけど、身の丈に合った悩み事の相談を受けている余裕が無いの」
僕は、声を潜めて尋ねる。
「何か、あったんですか?」
「それは、こっちが訊きたいわ。あなた、昨夜は何も無かった?」
「え? どういう意味です?」
エリザさんは、さりげなく周囲に目を走らせた。
登校する生徒たちは、さすがに表立って取り巻くようなことはなかったものの、美貌の理事長代理と胡散臭い新聞部部長という珍しい取り合わせに好奇の視線を向けている。これはちょっと、内緒話をするような環境じゃない。
「それは、理事長室で。関係者にも、一緒に聞いておいてもらいたいから」
関係者というと、やっぱりトリスメギストス事件にまつわる人たちのことを言っているのだろうか。
そう思いはしたけれど、それはここで訊くような話でもない。
僕とエリザさんは、とりあえず理事長室に場所を移したのだけれど。
一瞬、僕は理事長室に足を踏み入れるのをためらいを感じた。
何故かと言うと、そこにいたメンバーに色々問題があったからだ。
まずは優希ちゃん。
僕が呼ばれるんだから彼女がいるのは順当でしょう。
昨夜の自問にまだ答えを出せずにいるまま彼女の顔を見るのは少しばかり気が重いけれど、まあ、どのみち昼休みか放課後には会うことになるんだから全然構わない。
ご丁寧にもピタリと寄り添ってソファーに腰掛けている桐生先輩と鈴科先輩。
熱愛振りにあてられるのはなんだけど、訪ねていく手間が省けたと思えば結果オーライ。
桐生先輩が、憮然とした顔で押し黙っているのを別にすれば、だけど。
氷狩先輩。
頼みますから、そんな怖い顔をするのはやめてください。
そして、舞波聖邪さん。
だから、あなた停職はどうなったんですか?
はぁあぁ……
不思議じゃない。
困ったことに、誰一人としてこの場にいて不思議というわけじゃない。
僕とエリザさんも含めて、今回の一件か、あるいはトリスメギストス事件と関わりのある主要人物を集めたというのは、言われなくてもよくわかる。
でも、氷狩先輩と聖邪さんの睨み合いを筆頭に、桐生先輩まで交えて緊張感溢れるトライアングルを形成するのは、さすがに勘弁して欲しいのですよ。
「何をしてるの? 入り口で突っ立っていても、話は始まらないわよ」
そう言って空いているところに座るよう促すエリザさんに従い、僕は渋々中央のソファーに腰を下ろした。
正面にエリザさん、右手には桐生先輩と鈴科先輩のカップル、左手には、それぞれ一人掛けのソファーをスペースが許す限り引き離して座っている聖邪さん、氷狩先輩。
僕は、隣に座る優希ちゃん共々、極度に居心地の悪い場所で小さくなる。
「さあ、それじゃみんな揃ったところで」
エリザさんも、この異様な雰囲気には辟易しているのだろう、溜息混じりに切り出した。
「さっきも少し聞いたけれど、昨夜は何も無かった?」
なんと、その矛先は僕。
甚だ疑問を感じつつ、僕は答える。
「別に、何も……優希ちゃんを送った後は、まっすぐ家に帰って普通に過ごしましたけど」
「変わったことは無かった? 意識が途切れていたり」
うわ、こりゃ質問というより尋問だなぁ。
やましいことがあって呼ばれてるんなら即座に白旗を揚げる――それでこの場から逃げ出せるなら、安いものだ――ところだけど、生憎と無い袖は振れない。
本当に普通に、食事をして――直前に食べたジャンクフードのお蔭で、軽くしか入らなかったけれど――風呂に入ってパソコンをいじって寝ただけだ。普段と違うことといえば、優希ちゃんの件をウダウダと考えてなかなか寝つけなかったことくらい。さすがに寝ている間の記憶なんて無いけど、それを咎められたって困る。
「特に思い当たるところは、何も無いですよ。何か、僕関連で問題でも?」
逆に訊き返してみると、エリザさんは唸るように深く息を吐いて、ためらいがちに答えた。
「昨夜、かなりの規模の風精異常が発生したらしいのよ。気象局からの知らせでは、ね」
「それで僕を? 幾らなんでも、意味も無く風を乱すような馬鹿な真似はしませんよ」
そりゃ確かに、ジン族と風の精霊とは他を圧倒する強い縁がある。その昔は『風の王』なんて二つ名で呼ばれたほど、僕らは風を意のままに操る術に長けてはいるけれど。
誤解されがちなんだけど、ジン族と風の精霊との関係は支配ではなく共生と共有に根差している。どちらかが相手を好き勝手に動かせるという関係ではなく、お互いが自由気ままに振舞うことを許し合っている、と言うのが正しい。僕らは風に許されているから風の中で他のどんな種族よりも自由に行動することができるのだし、風は僕らの周りにいる限り他の元素から自由でいられる。そのために、僕らは意識することなく風に魔力を供給し続けているらしい。本当に意識したことも無いので実感は湧かないけれど、僕らは風が自由でいるために必要なエネルギーを垂れ流しながら日々を暮らしているのだ。今だって、本来風精が存在し得ない閉鎖された室内であるにも関わらず、僕の周りにだけは確かに風の精霊が気ままに踊っている。特殊な道具か魔法を使わない限り、目にすることはできないけれど。
魔法学が整備され、洗練された技術としてその恩恵が享受されている現在でも、僕らジン族が風を使う場合時代がかった手順や儀式が必要とされることが多いのには、そういった理由がある。僕らにとって風との縁は、あくまで契約なのだ。それも、種族の歴史と尊厳、根幹に関わる重大な契約だ。下手をすれば、その重みは個人の自由や生命をも凌駕する。
その僕らが、悪戯に風を乱すなんてことはあり得ない。出所が気象局ということはシルフ族からの知らせだろうけど、彼らならそういった事情を知っていてもいいはずなのに。
「ごめんなさい。疑うわけではないのだけれど……これだけの規模の風精異常を引き起こせるのはジン族ぐらいのものだ、っていうコメントがあったのよ」
エリザさんの言葉に、僕はさすがに不愉快ながらも可能性を検討する。
シルフ族は、感知力こそ優れているが僕らほどパワーが無い。小手先の技ならともかく、大規模な風精異常を引き起こすとなると綿密な準備と大掛かりな魔法装置や儀式が必要になるだろう。
エルフ族は論外。彼らは、歴史的経緯から意識してシルフ族を真似て風の精霊との関係を強調するが、実際には精霊との繋がり自体が希薄であり、せいぜい『優れた術者』程度にしかなれない。
じゃあやっぱり、ジン族の中にそんな馬鹿げた事をする奴が? と、よく考えると、この近辺でジン族って言ったら僕の家族しかいないじゃないか。ジン族って死神族と一緒でかなりの稀少種族だからなぁ。変な動きをしてるのがいたら、一発で種族会議にバレちゃうよな。だいたい、ジン族が近くに来れば、同族の僕が感知しないわけ無いし……
「あ」
そこまで考えて、僕は重大な事に気付いた。
「どうかした? 何か心当たりでも?」
期待半分、不安半分といった感じで身を乗り出すエリザさんに、僕は猜疑心もあらわに尋ねる。
「それって、本当に風精異常ですか? 風にそんな大規模な異常があったんなら、僕らの家族は全員飛び起きてますよ。ほっといても、風の叫びが耳に入ってくるんだから」
そうだ、うっかりしていた。
風に異常があれば、僕らは好むと好まざるとに関わらずその影響を受けてしまう。大規模な風精異常なんてものが近くで発生すれば、耳元で爆竹を鳴らされているような状態になるはずだ。それにも気付かず眠りこけていられるほど、僕はオメデタイわけではない。百歩譲って僕が度を越した鈍感だったとしても、同じ家に住んでいる両親まで僕に付き合って熟睡していなければならない道理も無いだろう。
僕の家族が揃って何も感じていないということは、それは風精異常ではなくよく似た別の現象であるか、あるいは表面上異常に見えるだけで風の精霊にとっては何でもない普通のことであったか、どちらかだ。
――いや、もうひとつ、何らかの原因で風の叫びが僕らの耳にまで届かなかったという可能性も、ごく僅かながら考えられなくはない。気象局の観測に誤りが無ければ、の話だけれど。
とにかく、これで僕の疑いは晴れたことだろう。
僕はそう思って安堵の溜息をついたのだが。
エリザさんは、唇を固く結んだ深刻そうな顔で、向かいのソファーに深く座り直した。
なんだろう、この反応は?
それに、この胸騒ぎは?
胸中に浮かんだ疑問に答えるかのように、エリザさんは噛み締めるようにゆっくりと声を漏らす。
「そうなると、最悪の事態を想定しないといけないのかも」
「どういうことです?」
そう問うて、僕は息を飲む。
何か、致命的な事実を指摘されそうな気がして。
そして、その予感はあながち間違いではなかった。
「君に、霊縁があるかもしれないということよ……トリスメギストスと、ね」
苦しげなエリザさんの声が、僕の耳には酷く虚ろに響いた。