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流転

「そう……恐れていたことが、起こってしまったようね」
事のあらましを聞いたエリザさんは、これまで僕が目にした中でも最大級の難しい表情でそう言った。
スッと伸びた細い眉と顎に当てた繊細な指が微かに震えている。
苦手意識もあって最後に回していたエリザさんだけど、さすがに事態の深刻さも充分理解している様子だったし、何やら心当たりまである様子。さすが、年の功……もとい、大人の振る舞いだ。
「恐れていたこと?」
鸚鵡返しに訊く僕に、エリザさんは真剣な表情でうなずき返した。
「ええ。時空間不連続歪曲、と言ってわかるかしら?」
「ゼヒシュタイン理論、でしたっけ?残念ながら、知ってるのは名前だけですね」
魔法霊子学でも最高峰を極めたと言われる有名な博士の名は、教養魔法学の成績が芳しくない僕でも知っている。ただ、本当に名前以外には『難しい』という風評しか知らない。
「まあ、しょうがないわ。専門家の間でも、それほど研究が進んでいる分野ではないから。簡単に言うと、強力な魔力の周辺では通常の霊的時空間法則が乱れてしまう、ということよ。これは、理論でもなんでもなくて、ただの事実。それを科学的にまとめるだけの研究は、まだなされていないわ」
エリザさんの解説を聞いて、さすがに僕でもピンときた。
「つまり、物事の順序や位置関係が、てんでバラバラになってしまう、と?」
コクリ、と小さくうなずき、エリザさんは注釈を付け加える。
「まあ、それほど無茶苦茶になってしまうわけではないらしいけれど。不意に予測外の事態が起きたり、当然起きるはずの現象が起きなかったり、そういうことは有り得るということ」
「既に終わったはずの、トリスメギストス事件の一部がこれから起こる、とか?」
念のために確認を取るような口調で発せられた僕の言葉に、エリザさんはため息と共に今度は深くうなずく。
「そうよ……さながら渦に呑まれた船のかけらのように、出来事が順列を無視して現れる」
流石に、眩暈を覚える。エリザさんの見解が正しいとすれば、僕はやはりとんでもないことに巻き込まれてしまったと考えざるを得ないだろう。(似非)ジャーナリスト(の卵)としては願ったり叶ったりという気がしないでもないけれど。
それにしても――
「じゃあ、僕らはどうすればいいんでしょう?」
思いが、そのまま言葉になった。
エリザさんは、辛そうに言葉を搾り出す。
「全力を尽くすしかないわね。もしかしたら、放置しても結果は変わらないのかもしれない。それは、もう起こってしまったことなのだから」
確かに、エリザさんの言う通りかもしれない。
そもそも、事件が僕の手に余ることは明白だ。優希ちゃんにとっても、似たようなものだろう。あるいは、氷狩先輩や舞波聖邪さんにとってすらも。
それでも、深い懊悩に表情を歪めるエリザさんを見ていると、僕はただ黙って頷くことは出来なかった。
「でも、断言はできないんでしょう?だとしたら、やっぱりのほほんと構えているわけにもいかないですよ。まあ、全体像が掴めない以上、僕にできることと言えば目の前の事件を片付ける努力ぐらいですけど」
僕が口にしたあまりにも気安い調子の言葉に、エリザさんは簡単に作り物と知れる力無い笑みを浮かべてる。
「そうね……でも、魔水晶に打ち勝つことが必ずしもよい結果を産むとは限らないわよ? 桐生君が過去にトリスメギストスを調伏できたのは、未来において君が魔水晶に負けてしまったからかもしれない」
なるほど。
僕はエリザさんが苦悩する理由の一端を理解したように思った。
既に結果が出てしまっている問題をこれから解決するために、僕や優希ちゃんは行動しなければならない。
しかも、その行動がどのような結果をもたらせば良いのか見当もつかないのだ。
下手をすれば、生徒や友人の弟を見殺しにすることが正しい判断なのかもしれない。
そりゃ、苦悩もするだろう。
でも、そういう考え方は、僕の好みじゃない。
「まあ、深く考えるのはよしますよ。桐生先輩やエリザさんが見てきた過去というのも、僕が今こうやって考えて、行動している結果なんでしょう? だとすれば、思うように動くのが一番正解に近いんだと思いますよ」
それが、僕が思う正直なところ。
事件の大きさ、重さに忘れかけていたけれど、所詮僕は僕としての判断、僕としての行動しかできないのだ。
だったら、あれこれ考えるだけ馬鹿馬鹿しい。そのことを自覚できただけでも、エリザさんと話をした意味はあった。
「そうかもね。フフッ……歳が離れてなければ、誘惑したくなるぐらいよくできた子ね、君も」
エリザさんは、ほんの少しだけいつものウィットを取り戻した様子だ。
それとも本気かな……って、思いあがっちゃいけないね、僕。
「それは、丁重にお断りしますよ。エリザさんは魅力的ですけど、学内に一大勢力を持つエリザさんのファンを敵に回したくはありませんから」
そう言って、立ち上がる。
そろそろ優希ちゃんたちと合流する時間だし――ついでに学校が閉まる時間でもあるけど――聞くことは聞いたから長居は無用だ。
「あらそう? でも、優希ちゃんにもファンは多いわよ?」
ガスッ!
エリザさんからとんでもない発言が発せられるタイミングを見計らったように、僕は理事長室の豪華な椅子に脛をぶつけて苦悶にのたうつことになった。
「ついでにお兄さんの聖邪君もいるんだから、大変よぉ?」
ケラケラと笑いながら追撃の一言を告げるエリザさん。
うぅ……やっぱり、僕はこの人が苦手だ。