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憶測

まだヤツが近くにいるかもしれないという危惧が無いではなかったけど、僕はとりあえず先程放り出した携帯電話を拾うために路地に入った。すぐにそれを見つけ、拾って動作を確認する。どうやら、予測通りバッテリーが外れただけで壊れてはいないようだ。
さて、とりあえずジン族の人材派遣センターと死神族の心霊管理局、どちらに先に連絡を入れようか。
そんなどうでもいいことを考えていると、背後から声がかけられた。
「おい」
少しハスキーがかった、特徴的な抑えられた声。
氷狩先輩だ。
「はい?」
言いつつ振り向くと、路地の端に彼女が立っていた。そのすぐ後ろには、申し訳なさそうな表情の優希ちゃんもいる。
「何でしょう?」
そう問う僕に、氷狩先輩は溜息混じりに答えた。
「どうにも、舞波の話は要領を得ない。改めて一から説明してもらえるか?」
その言葉に、ただでさえ小柄な優希ちゃんが一層小さくなる。
まあ、優希ちゃんの性格じゃ、氷狩先輩のキツイ物言いはつらいだろうな。
「構いませんけど。どこからお話しましょう?僕が優希ちゃんを手伝うことになった経緯から?」
今度こそ大きく溜息をついて、氷狩先輩はつっけんどんに言う。
「そんな事情はどうでもいい。ここで何をしていたか、何が起こったのか、それだけ簡潔に話してくれ」
僕は、その要望に応えるために、少しだけ腕組みをして考える。
「まず、ここで何をしていたかというところですね。心霊管理局から、この近辺に霊障が確認されたんで調査・解決するようにという任務が言い渡されまして。それを実行していたというわけです」
「なるほど。それで、何があった?」
うなずきつつもなお問う氷狩先輩に、僕は首を捻る。
「そちらに関しては、どうもこうもありませんね。氷狩先輩が追い払ってくれたヤツに出くわして、為す術無く圧されていただけです」
「フン……情けない話だな」
「まあ、仰る通りで」
確かに情けない話だが。
僕は、コホン、とひとつ咳払いをして、自身と優希ちゃんの名誉を護るために最大限の言い訳を試みた。
「でも、優希ちゃんの見解が正しいとすれば、相手はトリスメギストスなり、それに近しい者なりってことになる。そうとなれば、非難を受けるほどのことでも無いでしょう?」
「トリスメギストス?」
瞬間、氷狩先輩の表情が羅刹のごとく鋭さを増した。
微かに殺気すらも感じる。
う……何か、神経逆なでしちゃったかな?
「確かなのか?」
氷狩先輩は、首と視線だけ優希ちゃんの方に向けて問い質す。
その鋭い視線を向けられた優希ちゃんは、幾分縮こまりながらもはっきりと答えた。
「は、はい。トリスメギストスかどうかはわかりませんけど、確かに魔水晶を見ました。間違いありません」
「そんな」
驚愕の表情を垣間見せつつ、氷狩先輩はポツリと漏らす。
「まさか、あの人が……」
あの人?
氷狩先輩は、何を知っているんだろう。
「氷狩先輩」
それを問おうと声をかけた僕に、氷狩先輩はキッと刺すような視線と言葉を返してきた。
「何だ?」
ギラリと輝く、肉食獣の瞳。
その攻撃的な視線は、逆説的に彼女が余人に触れられたくない思考に身を委ねていたということを伝える。
「……いえ、重ね重ね、ありがとうございました」
結局、僕は氷狩先輩の言葉尻を捕らえるのを断念した。
純粋なカンだけど、何か彼女にとって微妙な問題があるような気がする。軽はずみに触れてはいけないような、そんな事情が。
「そうか」
フッと緊張を解いた感じでそう呟いてから、氷狩先輩は慌てて言い直した。
「いや、たまたま通りがかっただけだ。気にするな」
その様子を見て、僕はほんの少し頬の筋肉を緩める。
何というか、感情を隠すのが下手な人だ。
そして、巷で言われているような悪い人ではないようにも思う。単に、外界からの刺激に対する精神的な防御が行き過ぎているだけのように見える。
何をそれほど恐れるのか、先程漏れ出た言葉と併せて考えると、気がかりでないではなかったけれど。
「とにかく、優希ちゃん、管理局に連絡しよう。さっきのヤツの……魔水晶の行方も気になるし」
いつまでも憶測を巡らせていても埒があかないので、僕はそう言いつつ優希ちゃんに携帯電話を差し出した。
「は、はい」
優希ちゃんがそれを受け取り、ダイヤルする。
その間も、氷狩先輩は立ち去る素振りすら見せずその場にたたずんでいる。
「あの、とりあえずは大丈夫だと思いますから、ここに長居して頂かなくても構いませんが」
さすがに気が咎めてそう言う僕に、氷狩先輩は不敵な笑みを浮かべて言葉を返す。
「断定はできないだろう?邪魔になるなら、立ち去ってもいいが」
「とんでもない」
僕は、即答した。
「お力添え頂ければ、心強い限りですよ」
「ふん……世辞を言っても、何も出ないぞ」
照れたようにそっぽを向いてから、彼女はボソリと付け加えた。
「それに、あながち私も全く無関係というわけでも無いかもしれないからな」
その言葉に、僕はついさっき切り捨てた憶測が、もう一度鎌首をもたげてくるのを止められなかった。