戻る

才媛

大慌て、というわけではないけれど、それなりに急いで僕は美術室を後にした。
死神族の仕事の指示がどれほどの質・量であるかはわからないけれど、優希ちゃんの慌てようを見る限りそれほどのんびりと構えていられるわけでもないと思えたからだ。
鞄をふたつ引っ掴んで、いつもならのんびりと歩いている階段を二段飛ばしで駆け下りる。
と、踊り場でターンしようとしたところで、危うく誰かとぶつかりそうになった。
もっとも、自慢じゃないけど僕たちジン族の身のこなしは軽い。実際にその相手と衝突するようなことはなく、ひらりと脇に避ける。
そこまでは問題なかったんだけど。
「こぉら。廊下は走らない!まして、階段を駆け抜けようなんて、どう言う了見かしら?」
「うわ・・・・理事長代理」
僕の目の前に、眦を吊り上げている美女が一人。
聖遼学園の理事長代理にして現職の教員でもある、エリザ・ノインテーター女史だ。
僕は、正直言ってこの人が苦手だった。
「ずいぶんな驚きようね。お久しぶり、ジン族のお坊ちゃん」
幾分相好を崩してそう言う彼女に、僕は少々表情を曇らせて苦言を呈する。
「お坊ちゃん、はないんじゃないですか、エリザさん」
「君が『理事長代理』なんて他人行儀な言い回しをするからでしょう?」
そう応じて、ヴァンパイア族の、それこそ『お嬢様』と呼ぶにふさわしい血筋の女性は、軽く笑みを浮かべた。
もっとも、彼女が血筋のことを言われるのを好まないことを僕は知っている。才色兼備の大人の女性だけど、それだけに自分の手によらないことであれこれ言われるのは意に添わないらしい。
「でも、同じ学校にいる割には、本当に久しぶりに会うわね。お姉さんは元気?」
エリザさんの問いに、僕は首を捻った。
「元気に世界中飛びまわっているはずですけど、家に寄り付きませんからね。姉にはもう一年近く会ってませんよ」
「まあ、ある程度は種族柄仕方ないわね。あの子は優秀だから、引っ張りだこなんでしょう?」
などと言いつつクスクス笑うエリザさん。そうしていると彼女は、何と言うか、実際の年齢よりもずいぶん可愛らしく見える。
歳のことを言うとまた怒られるので口にはしないけれど。
彼女と僕の接点というのは、ごく単純でありふれたものだ。僕の姉と彼女とが学友であったという、ただそれだけである。
その接点である姉はといえば、数年前から職業人として文字通り世界中を飛びまわっている。僕と違ってえらく要領のいい人なので、エリザさんの言う通り引っ張りだこらしい。
「二ヶ月前に中東の本部から手紙をよこして以来音沙汰無しですね」
「あら?」
と、エリザさんは素っ頓狂な声をあげる。
「私のところには、ひと月前に手紙が来たけれど。『あなたたちの聖地に来てる』ってね」
その情報に、僕はさすがに苦笑することしかできない。
「まあ、姉らしいといえば姉らしいですね」
「それで」
エリザさんは、不意に話を元に戻した。
「君はいったい、何をそんなに急いでたわけ?」
「あ!」
忘れるところだった。
「姉じゃないけれど、僕も仕事で急いでたんですよ」
「仕事?」
怪訝そうに訊き返すエリザさんに、僕は簡単に事情を説明する。
「ええ。死神族の舞波さんって子を手伝うことになってるんです。それで今、彼女の方に仕事の連絡があったところなんですよ」
「優希ちゃんの?」
「はい」
ん?
僕は『舞波さん』としか言わなかったはずだけど。何故エリザさんが優希ちゃんの名前を知っているんだろう?
「知ってるんですか?」
何を、とも、誰を、とも言わずにかけた問いに、エリザさんは何故だか難しい顔をしてうなずいた。
こうしていると、彼女はひどく大人びた女性を感じさせる。
「もう終わったことだけれど」
僅かに憂いを帯びた目で、彼女は僕を見つめた。
「しっかりサポートしてあげてね」
その視線に少しドキリとする。ヴァンパイア族が、そもそも人を魅了する術に長ける、そのことを差し引いても彼女はとても魅力的な女性だ。こうまじまじと見つめられると、さすがに照れる。
「ええ、でも何故?」
思わず口走ってしまった問いに、エリザさんはクスリと笑って答えた。
「それがあなたたちの仕事でしょう?」
「まあ、それはそうですけど」
「あ、でも。あんな勢いで走っちゃダメよ。これは教師としての注意」
体を入れ替え僕の背を押しつつ、エリザさんは続けた。
「だけど、出来るだけ急いでいっておあげなさい。一人にしないようにね。これは、個人的な忠告」
「結局、どっちなんですか?」
少々たたらを踏みながらそう問う僕に、エリザさんは悪戯っぽく笑いかける。
「さあ?それは自分で考えないと」
なんだかんだいって、どうにも僕は彼女に手玉に取られているようだ。学内に大勢いるエリザさんのファンから見ればうらやましいことかもしれないけど、当の本人にとってはあまり面白い事態でもない。
「はあ・・・・それじゃ、失礼します」
何より実際問題として時間がなかったので、僕はエリザさんに別れを告げて駆け出した。
「まだ始まっていないのかもしれない・・・・?まさかね」
ずいぶんと深刻そうな、彼女の独語を背で聞きながら。