「ただいま。おとなしくしてたか、サナダ?」 「お帰りなさい。どうだったッスか、あっちは?」 二ヶ月目にして既にスッカリ馴染んでいる真田、朝食のパンなどくわえながらジョーカー・レディ――この部屋の本来の主――を出迎える。 真田が下宿しているという事情などお構い無しに、ジョーカーはいつものように日本に呼ばれ本来真田が所属しているSPTのリングでひと暴れしてきたところだ。 「いやぁ、やられたやられた。ダテは、もう私じゃ止められないな」 悪びれず、苦笑するジョーカー・レディ。 数年前なら、感情をむき出しにして悔しがったかもしれない。 しかし、ライバルであり激しい抗争を繰り広げたチョチョカラスが完全にジョーカーの手の届かない位置に辿り着いてしまった今、それほどの激情が彼女の中に渦巻くことは最早なかった。 諦念かもしれない。 年齢的なものがあるのかもしれない。 あるいは、それ以外の何かが。 真相は、正直なところジョーカー・レディ自身にもわからなかった。 ただ、未だ失われてはいない情熱とは別に、ごく冷静に、そして平然と、現実を認識し受け入れてしまう。 最終的な善し悪しの程はわからないが、ともかくジョーカーはそんな自分を受け入れていた。 そんなジョーカーの内面を知ってか知らずか、真田は、うむぅ、と難しい顔をする。 「頑張ってるんッスね、はるっち……」 ジョーカーは、肩をすくめて応じた。 「まあね。今じゃ、押しも押されぬSPTのエースだよ。ウチとしても、もうチョチョを当てていくしかないだろうね。向こうのボスも、さぞ鼻が高いだろうさ」 そこまで言って、ジョーカーは表情を微妙なものに変えて続ける。 「まあ、なんだ、お前もある意味エースだけどな、サナダ」 対する真田もまた、何とも微妙なツラで言った。 「うぅ……武士の情けで、そのことについては言わないで欲しいッス……」 「私はブシじゃないよ。それにな、アレはアレで、立派なものだぞ?」 AACのリングにおいて、真田美幸、いやバーニング・サナダにはふたつの命題が与えられていた。 ひとつは、アクロバティックなムーブを志向すること。 これは、ルチャリブレの鉄則のようなもので驚くには値しない。 そもそも、ルチャの空中殺法に憧れてメキシコまでやってきた真田にしてみれば、言われずともそうさせてもらう、という類のものだ。 ちなみに、真田得意の打撃に関しては別に封印を言い渡されたりはしていない。 実際AACのリングに立ってみてわかったことだが、一口にルチャと言っても空中殺法ばかりではないのである。 軽快な投げ技も多用されるし、関節技も多種多様。打撃技も例外ではない。 ただ、少しばかり日本のプロレスとは流儀が異なる部分があり、そして花形が空中殺法をはじめとしたアクロバティックなムーブである、というだけのことだ。 まあ、真田としてはその花形を目指しているわけで、特に彼女自身の修行方針に影響を与えるものではなかったが。 そして、もうひとつの命題。 必ず、おバカな行動をとること。 衝撃のデビュー戦以来、バーニング・サナダに観客が求める最も重大な見せ場は、まさにソレであった。 メキシコ中にその評判が大々的に知れ渡ってしまったため、興行地によってキャラクターを変えるなどという煩わしさはなくなったのではあるが……正直、冗談ではない、といったところだ。 しかし、だが、しかし。 悲しきかな、言われなくても自然とそうなってしまうのが真田美幸であった。 真田としては、試合の序盤に馬鹿げた行動をとってお茶を濁し、後は真面目に試合を展開したいところなのであるが。 どういうわけか、毎試合かなりの高確率でおバカなムーブをしでかしてしまう天然さんなのであった。 そして悩ましいことに、おバカ度と観客の評価は正比例の関係にあった。 真田の場合バカ行動は、ブックでないが故に非常に見ごたえがあるのだ。 真面目にやったからといってブーイングが飛んでくるわけでもない。 しかし、やはりおバカ度が低い試合の際には、観客は何かしらの失望を感じてため息を漏らすのであった――たとえ、格上のデスピナやジョーカーに勝利したとしても。 真田にしてみればたまったものではない状況なのだが、人気は人気である。 おかげで、バーニング・サナダはAACマットにおいて完璧に独り立ちを果たしていた。 それでも、である。 「自分としては、マジメにやってるんッスけど……」 「わかってる。だからこそ、面白いんじゃないか」 「うぅ、ジョーカー師匠、そりゃひでぇッスよ〜」 悩ましいこと、この上なし。 「はぁ……でも、はるっちホントにスゴくなっちまったッスねー……」 自身に降りかかっている面白状況は脇の方にうっちゃって、ため息ひとつつく真田。 ジョーカーは、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら、ごく軽い調子で訊いた。 「羨ましいかい?」 「羨ましいって言うか」 己の感情を量りかねているのか、真田は首を捻りながら答える。 「何か、溝を開けられたなーって感じッスね……同期としては、嬉しいんッスけど」 「その溝を埋めるために、ココにいるんだろう?」 応じつつ、真田の正面に座るジョーカー。 テーブルを挟んで向き合う真田は、ニコニコと笑って頷く。 「そッス。自分も、負けてらんねーッス」 「それでもな……」 一口だけ水を飲み、ジョーカーは少しだけ皮肉げな顔をして言う。 「お前が努力した時間、ダテが遊んでいるわけでもない。溝が埋まるとは限らないんだよ?」 ――むしろ、更に開く可能性もある。 その一言は、ジョーカーには言えなかった。 同じ時間を努力したとしても、人それぞれに結果が違うのは厳然たる事実だ。 たとえ、全く同じカリキュラムを組んだとしても。 いや、むしろそうした方が違いがはっきりと認識されるはずだ。 それは時に才能という言葉で片付けられ、あるいは運命という言葉で誤魔化される。 どう表現しようが事実は事実。 人は、最終的にただ現実と向き合う以外にない。 それは、どんな世界にも、恐らくは生きている限り、当たり前に存在する理だ。 ただ、極限の世界で競い合う者たちは、そうでない人々よりも遥かに強く、身近に、そのことを感じざるを得ない。 能天気な真田といえど、いつかはその現実に直面するだろう。 いざその時になって悩まずに済むよう、少なくとも幾ばくか懊悩を軽減できるよう、少しばかり忠告しておくのも悪いことではない。 殊に、真田は本人の資質からすればお世辞にも向いているとは言えないルチャの世界に入れ込んでいるのだから。 AACで過ごす半年間は、あるいは真田にとって取り返しの付かない停滞をもたらすだけかもしれないのだ。 ついにAACの頂点には辿り着けなかった自身の苦い経験が、ジョーカーに幾らか意地悪な言葉を紡がせる。 「いやぁ、その辺は努力と根性で!」 ジョーカーの思いを知ってか知らずか、にこやかに笑って答える真田。 「真面目な話をしているんだよ、サナダ?」 冗談か脅し程度にしかとられていないと思い、ジョーカーは僅かに表情を厳しくして注意を喚起する。 「いや、そっすね……」 真田も真面目な顔で唸るが。 悩むこと三秒。 「正直、自分そこまでは考えてないッス。自分はプロレス一筋、ダメでもやるしかないッスから」 ニカッと笑って、そんなどうしようもない答えを導き出した。 「そうかい?」 ここに至ってはジョーカーも、笑ってそう応じるしかない。 欠片ほどの曇りもない真田の笑顔を見ていると、あれこれ考えている自分が馬鹿のようにも思える。 真田のように一途に駆け抜けることが出来るのも、一つの才能だろう。 自分の立ち位置だとか、周囲の諸々だとか、そんなことに囚われて立ち止まることなど、真田には無縁のことなのかもしれない。 あるいは、リングを降りる最後のその瞬間まで。 ジョーカー自身は、真田の真似などできそうにもないし、あるいは可能だったとしても決して選びはしない道だろうが。 ――眩しいよ、お前は。 そう、胸中で呟く。 間違いなく、この一途な眩しさは真田の魅力だった。 突貫ファイトも、バカ騒動も、真田のどうしようもない眩しさに照らされて出来た影絵のようなものかもしれない。 その魅力の源泉は、眩しいほどに一途な真田美幸という人間そのものに求められるのではないか? ふと感じる、憧憬にも似た感情。 持て余したジョーカーは、彼女らしく振舞うことでそこから逃れようとする。 「まあ、もし駄目だった時は、ウチでいつでもやっていけるからな――トンタ人気は絶大だしね」 さすがに、これには真田もげんなりした表情で呻く。 「うぅ……ソッチは、勘弁してくださいよォ……」 ジョーカーは、わざとらしいぐらい大仰に、アハハ、と笑った。 ――ダメだ。完全にヤられちまったよ。 心の中で白旗を揚げる。 どうにもこの可愛い弟子の魅力には抗えない。 今はまだ、トンタ(馬鹿女)だろう。 しかし、いずれは―― ジョーカーは、何の理屈も伴わず、ただこの娘の行く末を見てみたい、と思った。
ま、とりあえず衆目が明日の真田に期待しているのはトンタ(馬鹿女)なんだけど。 |